縄文探検隊の記録

 

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【おススメの本】

『縄文探検隊の記録』(インターナショナル新書)

 

縄文の研究者岡村道雄さんと作家夢枕獏さんの縄文に関する対談集。楽しくスイスイと読めてしまます。実に面白い!

縄文時代の研究がどんどん進み、それまでの常識が覆りつつあるようです。

 

これから縄文時代の評価がさらに高まるのではないでしょうか。

場合によったら世界的に注目される可能性が高いですね。

 

 

SDGナンチャラとかいうのも縄文的暮らしのなかにヒントがあるのでは?

 

 

 

舞鶴にも千歳、三浜、由良川など沢山の縄文文化の痕跡がありますし、

おそらくは青葉山や冠島は縄文時代の精神文化の支柱だったのではないかと感じます。

 

舞鶴縄文時代から近代までまんべんなく歴史的遺産がありますが縄文時代舞鶴についてまとめておく必要があるかもしれません。誰かやってくれないか?

 

 

白鳥通りのリサイクルセンターへの道のりで渋滞がすごいことになってます!

 

ゴミ処理の方法が大きく変わりこれから不法投棄が増えると思うと心が痛みます。

 

私は舞鶴市が良くなってほしい!と思うのですがとりあえずは周りの環境を綺麗にすることから始めたいと思うのですね。

 

それから有機物は可能なかぎり堆肥化できたらいいなと思います。

 

 

幸い我が家は山寺なので生ごみの類はすべて土に還すことができます。

 

市街地でのコンポスト設置はなかなか難しいかもしれませんが、市役所、図書館、学校など一定の敷地がある公共施設はコンポストの設置を義務化してはどうかなと思います。

 

縄文人に笑われないような暮らしがしたいですものです。

 

 

 

 

 

山寺ぐらし 「ブルーライトヨコヤマ」

 

 

久しぶりに子供の学校連絡のプリントをみたら

 

相変わらず新型コロナの影響が大きく。

 

子供の学校でも遠足、資源回収が中止…

 

資源回収のために新聞などを大量にためて頂いているお宅も多いが来年までどうなるのかな…

 

 

 

ついでに給食の献立を見たら相変わらずどれもおいしそう!

 

美味しいだけでなく栄養バランスも完璧。

 

時給500円でいいから給食の味見のバイトをしたい。

 

 

でも謎の献立もあって

 

「セルフサブマリンサンド」

 

とか

 

「こぎつねごはん」

 

 

とか謎だ…

 

 

 

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庭のジューンベリーが色づき始めた。

 

小鳥が実をついばみにくるのを楽しみに植えたのだが、いろんな小鳥が群がるのではなく大味な感じのムクドリががっつり食べにくる。

 

 

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銀杯草が咲き始めた。とても好きな花で昨年はどっさり苗を植えたが鹿の食害でほぼ全滅。

 

白い小さな花だが伸びあがるようにして咲いている姿が好ましい。

 

 

 

 

 

初めて充電式の草刈り機を購入。

 

購入前に値段を調べたら

 

草刈り機本体が2万5000円なのに

 

バッテリーが14,000円もする!

 

 

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仕方なくバッテリーと充電器は互換性のある中華製にした。

 

純正品より品質落ちるだろうが価格が3分1以下なのは魅力。純正品が高すぎるのか?

 

 

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本日は家内と高浜にあるイタリアン「ブルライトヨコヤマ」さんへ。

 

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私は紋甲イカとムング豆のカレー。

 

申し分のないおいしさでした。とても素敵なお店で料理も素晴らしいのでどなたにもおすすめしたい。

 

 

お店を出ようとしたらすごくいいタイミングでBGMでいしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」が流れてきた。

中井権次の彫刻 『舞鶴歴史物語』その6

 

 

 寺院を参拝する際、階段を登って本堂の外陣(分かりやすく表現するなら賽銭箱の置いてある当たり)に立ち参拝することが多い。

 

 本堂正面の階段の上の部分は向拝(「ごはい」「こうはい」)と呼ばれる部分で、本堂の屋根が外へせり出している。

 お参りされる方はおそらくあまり向拝には気を止めずに参拝される方が多いのだが

本堂を建立した人々はこの向拝に意匠を凝らしていることが多い。

 

 本堂の作り手が一番見てほしい場所が向拝なのであるが、参拝者の多くはこの向拝を素通りしていることが多いのは少し残念である。神社仏閣に参拝には是非、この向拝に眼を止めて頂きたい。本堂本体を地元の棟梁が造り、向拝は優良な大工を招請して作らせることも多かったであろう。その代表が中井権次一統であった。

 

 

 北近畿一円の神社仏閣に大きな足跡を残した彫刻家の集団が中井権次一統である。

 丹波柏原藩兵庫県丹波市)の宮大工、中井道源を初代とし、4代目の言次君音(ごんじきみね)以後、9代目の貞胤まで神社仏閣の彫物師として活躍した。その足跡は丹波、丹後、但馬に広く残されている。丹波、丹後、但馬、播磨など200ヶ所以上にその作例が知られている。

 

 初代は宮大工で4代目から本格的に彫り物を始め、現在は11代目となり中井光夫氏は宮津で印判業を営んでおられる。 

 

 私が住職を拝命している多禰寺、金剛院にその足跡をみることができるが舞鶴市内にどれだけ中井一統の残した彫刻があるのか定かではない。

 

 多禰寺本堂の向拝を例にしてそのを詳しく見てみる。

 

 本堂前に立つとます目につくのは向拝の正面に彫られた龍である。

 寺院に龍の絵画や彫刻が残されていることが多いが、龍は仏法を守護する霊獣である。また風を吹かせ、雨を降らせるなど気象を司るとも言われるので火災除けの意味を持つとされる。

 多禰寺の龍は欅(ケヤキ)の一木造りという希少なものである。のみならず背びれ、鱗、角など細部の意匠に技の冴えを感じさせる作品である。龍の顔は本堂のほぼ正中線上にあるにあることとから、龍の瞳は参拝に訪れた者を睥睨するように作り出されていたのかもしれない。

 

 左右の柱には正面に向いて獅子が彫られている。開口と閉口で阿吽を表しているが、風化して分かりにくいが獅子の眼を見ると、その瞳は参拝者を見下ろすようにできている。

 

 柱の外側に突き出すように象が彫られている。この象は正面側の眼は瞳が無く、外陣側の瞳は作られている。すなわち参拝者が本堂前に立った時には象ではなくまず獅子と眼を合わせ、本堂でお参りを終えて階段を降りようとする参拝者は象と眼が合うという趣向なのだろう。

 

 作者の意図は参拝者がまず龍と左右の獅子に眼を合わせ、参拝を終えて階段を降るときに象と眼を合わせるようにという配慮なのであろう。もちろんこれは私の勝手な想像なのだがそう考えないと象の眼が彫られていないことの説明がつかないように思う。

 

 また最初に獅子に逢い、最後に象に逢うということにも含意を感じさせるものがある。

 なぜなら獅子と象はぞれぞれ文殊菩薩普賢菩薩の乗り物とされているからである。さらに「華厳経」という経典のなかに善財童子の有名な逸話がある。そこで善財童子は最初に文殊菩薩に逢い、最後に普賢菩薩に逢って悟りに至るという壮大な物語である。

 

 寺院に参拝することを「華厳経」のなかの善財童子の物語になぞらえているのではないか…寺院に参拝するものは善財童子のように仏の世界を巡るという意味なのではないかというのが私の推測である。

 

 ちなみに善財童子は最初に文殊菩薩に教えを受け、53人の優れた人々から教えを受ける。東海道には53の宿場が整備され東海道五十三次と呼ばれたが、53という数字はこの善財童子の物語によるとする説がある。江戸時代には広く知られたのであろう。

 

 具象的な彫刻だけでなく装飾的な彫刻の冴えや向拝を構成しているみごとな部材の数々にも眼を向けてほしい。

 

 中井権次顕彰会がその足跡の発掘と評価に向けて様々な活動をしておられ心強い限りである。

 

 

 

 

文章だけでは分かりにくですね‥

 

というわけで写真でご説明しましょう。

 

 

 

 

多禰寺本堂(1840年頃建築の記録があります。京都府指定文化財

 

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向拝というのはこのような部分です

 

 

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中央にケヤキ一木造りの龍が鎮座し、正面には獅子、柱の両側から象の顔が突き出すように見えています

 

 

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獅子の顔をよーく見ると‥

 

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瞳がしっかり参拝者を見据えている!(笑)見据えてる感がちゃんとありますよね?

 

 

正面からも象は見えますが‥

 

 

こちらは正面からみた象の横顔。瞳が彫られていないことにご注目ください。

 

 

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こちらは反対側、つまり外陣側からみた象の横顔

 

 

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象が斜め後ろに視線を送り参拝者を見ています。

 

 

龍の腹部には銘が見えます

 

 

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彫物師

丹波 柏原城下住人

中井権次 正貞 

     彫刻

 

 

 

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こんなすごい部材今では手に入らないでしょう 

 

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装飾彫りの冴えも素晴らしい

 

 

金剛院の本堂も同じような構成になっています。

 

 

私は多禰寺のほうが彫りが冴えているように思うのですが。

 

 

中井権次一統の彫刻は舞鶴の近世文化の素晴らしい遺産だと思います。

 

地元にこのような素晴らしい作品が残されていることを是非大勢の方に知って頂きたいものです。

 

 

 

 

朱の輝き 『舞鶴歴史物語』その5

 

 

 

 日本が文明国家としての体裁を整えるには大量の貴金属を必要とした。私達が想像する以上に金属を渇望されていたのである。

 

 文武天皇(第42代天皇)の治世に対馬から金が献上された。このことから元号「大宝」(701~704)が制定された。<大いなる宝>とは金のことにほかならない。

 

 続く元明天皇(第43代天皇)の時代、武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)から精錬を必要としない純度の高い銅が献じられたことにより年号『和銅』(西暦708~715年)が定められた。

 ちなみに『丹波国』から丹波日本海沿岸の丹後が別れたのが和銅6年(713年)である。

 

 

 8世紀最大の国家事業のひとつが奈良東大寺の大仏(盧舎那仏坐像)の建立である。

 大仏は銅製の本体に金で鍍金(メッキ)を施されていた。金色に輝く巨大な坐像は台座を含めれば20メートルに近く、完成された大仏の威容は見る者を圧倒したにちがいない。

 

 

 鍍金(メッキ)に必要な資材は水銀である。

 金に水銀を加えると金と水銀の溶け合ったアマルガム(合金)が生じる。それを仏像の表面に塗り加熱すると、水銀が気化して仏像の表面に金が付着する。

東大寺要録」には大仏建立の資材として練り金一万四千三十六両、水銀五万八千六百二両という莫大な数字が残されている。

 

 

 水銀(Hg)の原料は辰砂(HgS)という鉱物である。

 辰砂(HgS)は水銀(Hg)と硫黄(S)の化合物であり朱、朱砂、丹、丹砂、朱沙など様々な名称でよばれた。

(以下では便宜上“朱”という名称を用いる)

 朱は火山活動に伴って形成されることから火山国である日本の至るところに生成された。

 

 

 

朱の歴史

 

 朱の利用は遅くとも縄文時代晩期と考えられる。縄文人も既に朱を利用していたことに驚きを禁じえない。その用途は顔料、塗料、防腐剤などの利用が多かったと考えられる。

 

 生命力の源である<火>、<血液>、<太陽>は共通して赤い色を有している。

 古代の人々は朱の色を特別なものとみなしたちがいない

 

 朱の力が邪悪を遠ざけること、生命の賦活をもたらすなどの考えも存在したといわれる。石棺に朱が敷き詰められているのは防腐的な意味と併せて悪しきものを遠ざける辟邪(へきじゃ)が目的であろう。青葉山の陸耳御笠(くがみみのみかさ)を討伐させた崇神天皇(第10代天皇)の陵墓とされている奈良県天理市の行灯山古墳には200キロもの朱が使われていたという

 

 

古代の朱 (ちくま学芸文庫)

古代の朱 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:松田 壽男
  • 発売日: 2005/01/01
  • メディア: 文庫
 

 

 

 鍍金(メッキ)の他に、金銀の採掘にも朱は必要不可欠であった。

 鏡や刀剣の研磨、さらに時代が下っては白粉の原料(特に伊勢産の白粉が有名である)としても利用された。

 

 朱の需要は大変に高く、貴重であった。

 「朱一匁、金一匁」ともいわれ、金と等価もしくは金に準ずる価値を認められていたと考えられる。

 

 現在、水俣病などの影響で水銀は有毒な金属と考えられ顧みられることが少ないが、朱はかっては金と同様の価値を持つ鉱物として国内の至るところで採掘され利用されていた。現在と全く異なる価値観で人々が生活し社会が動かされていたことは歴史の面白さではないだろうか。

 

 3世紀末に書かれた「魏志倭人伝」でも日本の鉱物について「真珠、青玉を出す。その山には丹あり」と記している。「真珠」は真珠貝からとれる<パール>ではなく、朱であると考えられている。

 中国でも朱を貴重と考えていたからこその記述であろう。特筆するほど大量の朱が採掘されていたのかもしれない。

 

 大和王権の発祥地であり、邪馬台国の候補地でもある桜井市崇神天皇(第10代天皇)が初めて王宮を定めて以来、大和王権の要地となる。桜井市近辺には大和水銀鉱床とよばれる国内でも最大級の朱の鉱床が存在する。この水銀鉱床における朱の発掘は大和王権を支える大きな力となった可能性がある。

 

 大和王権の発祥は神武東征に遡る。九州に天孫降臨した神の子孫である神武天皇が日向から瀬戸内海の海路を経て奈良に至る。

 『邪馬台国は「朱の王国」だった』の著者である蒲池明弘氏は従来の朱の研究を総合したうえで朱の伝承を実地に調査されている。金の採掘地と朱の採掘地に着目すると神武天皇の東征ルートと金山、朱の採掘地が重なることを指摘されていて興味深い。

 

 古代日本は大量の鉄を輸入した。古墳時代後期の5~6世紀まで朝鮮からの鉄の輸入が続いたとされる。輸入の主要ルートは瀬戸内海と日本海沿岸の海路であり、丹後の重要性は日本海沿岸の海路とつながっている。

 日本に大量の鉄が輸入されたことは事実だが鉄と交換に輸出されたものが何であったか?という問は難しい。すぐに思い浮かぶのは金やヒスイであろう。そして日本で大量に産出された朱が鉄との重要な交換材であったという指摘があることは重要だろう。

 

 丹後は製鉄の先進地域で製鉄生産においては大和を圧倒しているが、製鉄先進地域で日本海沿岸を掌握していた丹後に対して大和王権がどのように対抗していったのかという点は興味深い。もしかしたら豊富に生産される朱が大和王権を支えていたのかもしれない。

 

 

 

邪馬台国は「朱の王国」だった (文春新書)

邪馬台国は「朱の王国」だった (文春新書)

 

 

 

舞鶴と朱の地名

 

 

  朱が採掘された土地には「にゅう」「に」「ね」という音の地名が多いとされる。丹生(にゅう)、壬生(にぶ)、仁尾(にお)、入谷(にゅうたに)、大入(おおにゅう)など様々である。

 また朱の色を反映して朱の産地に「赤」「血」などの文字が使用される例もみられる。赤坂、赤井、赤尾、血原、血浦などの地名がその例である。

 

 

 舞鶴を含む丹後から若狭にかけて極めて大きな水銀鉱床が存在する。舞鶴で朱の生産を想像させる地名として浦入(うらにゅう)、二尾(にお)、女布(にょう)などが挙げられる。そしてはっきりと“丹生”そのものを地名としているのが大浦半島の大丹生(おおにゅう)である。

 朱の研究の先駆者である松田壽男も著書である「丹生の研究」「古代の朱」のなかで舞鶴の大丹生を取り上げている。なお、奈良時代には大浦半島の大部分は若狭国であった

 

 

多禰寺と大丹生

 

 大丹生(おおにゅう)の近くにあるのが多禰寺(真言宗東寺派)である。

 

「多禰」(たね)という寺名の語源に<砂鉄>の可能性があることを別項にて述べたが、ここではもうひとつの可能性を示したい。

 

 同じ言葉を音読みと訓読みで使い分けることがある。地名では「浅草」(あさくさ)と訓読みするのに対し寺名では「浅草寺」(せんそうじ)と音読みすることがある。「多禰」の音読み「たね」に対して訓読みでは「おおに」「おおね」と読める。これは大丹生(おおにゅう)と類音である。

 

 多禰山の麓は赤野とよばれる。実際、土壌には赤色の土壌がいたるところで露出しているのを見かけることができる。大丹生、赤野といった地名からも大丹生から多禰寺一帯が朱の産地だった可能性は極めて高いといえる。

 

 小浜の遠敷(おにゅう)はかっては“小丹生”と表記されていた。若狭にも朱にまつわる地名が多い。美浜の原電の所付近も「丹生」という地名であったとされる。

 高浜の馬居寺付近に伝わる逸話として、不作の続く畑を掘り返したところ壺が見つかり。中に大量の朱と小判が入っていたという。

 

 

 東大寺の年中行事である修二会のお水取りは大仏殿の脇の二月堂で行われる。初めてお水取りが行われた時に諸神が参集するなか若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん)が遅れたため、遠敷明神がお詫びに水を献ずることとなったのがお水送りの起源とされる。

 「二月堂縁起」によると遠敷明神の力によって岩の中から黒と白2羽の鵜が飛び出し、そこから水が湧き出たという。

 岩の中から鵜が飛び出すとは奇妙な話であるが、朱にまつわる地名に「にう(にゅう)」があることを知っていれば、二羽の鵜 が「にう」であることは明らかだろう。

 

 

 丹後から若狭にかけて朱の産出を示す地名が分布しているということは、大量の朱が採掘され国外に輸出されていた可能性もあるのではないだろうか、中国や朝鮮に日本の朱が輸出されていたことは確かだが、それがいつからどれくらいの規模で行われていたかは不明である。

 門脇禎二氏は大和王権や出雲、吉備などと並ぶ独立した勢力が丹後にあったとして丹後王国論を唱えた。

 丹後王国が丹後から若狭にかけて産出される朱の輸出を行っていたと考えることも可能ではないかと思う。

 

 

 

日本海域の古代史

日本海域の古代史

  • 作者:門脇 禎二
  • 発売日: 1986/10/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

丹の神様 丹生都姫

 

 全てのことが信仰に結びついた時代にあっては朱の採掘も様々な信仰や呪力と結びついた。

 朱にまつわる信仰として有名なのは丹生都姫(にうつひめ)や丹生明神である。

 

 丹の採掘に携わった人々は、定着した土地でこの女神を祀り、朱が枯渇すると新たな土地に移動した。

 丹生都姫は朱の女神であると同時に水の女神であり、請雨や止雨などの天候祈願と結びついていた。

 水銀が水金(みずかね)ともよばれるように水と関わると考えられていたのかもしれない。

 朱が枯渇して採掘者が移動しても、丹生都姫は水の神として農業と結びつきその信仰が残されることもあったであろう。

 

「丹生の研究」によれば丹生都姫を祀る神社は全国に159社あるという。最も多いのは和歌山県である。

特に丹生氏という氏族がこの丹生都姫を祀ったとされる。

 

 空海高野山に道場を開くに当たって丹生都姫の力を得たとしている。おそらく丹生氏の協力があったことを示すのだろう。空海は冶金、鉱業、金属製錬の知識や技術をもっていたと考えられる。空海の山岳修行した高野山と四国には巨大な水銀鉱床のあることが知られている。

 

 

深沙大將

 

 

 

 

 多数の仏像のなかでも作例の少ないもののひとつが深沙大將がある。作例が少ないためこの尊格の存在を知っている人は少ない。

 

 深沙大將の由来で最も有名なのは玄奘三蔵、いわゆる三蔵法師との関係である。玄奘三蔵がインド求法の旅の途中、タクラマカン砂漠で遭難の危機にあったところを深沙大將が救済したことが有名である。(「西遊記」に登場するお供の沙悟浄は深沙大將をモデルにして創作された。)深沙大將は三蔵法師を守護したことから仏法或いは般若経を守護する護法神とされている。

 

 文化財として見た場合、国宝の深沙大將は存在せず、重要文化財の深沙大將が4体存在する。

 明通寺(真言宗御派)、高野山の霊宝館、岐阜の横蔵寺(天台宗)、当地の金剛院(真言宗東寺派)の4例である。

 

  深沙大將は水銀と関係あるのではないか?というのが筆者の長年の疑問でであり仮説である。

 

 「深沙」を清音で訓むと「しんしゃ」「しんさ」となり「辰砂」に通じる。

 沙が砂と同じ意味であること、辰砂の「辰」は蛇の意味であるが深沙大將は多くの場合、手に蛇をもっている。

 

 金剛院は明通寺と同じく若狭の仏教文化のなかに包摂されているが若狭が朱の産地であることは既に述べた。高野山空海が開山にあたって丹生都姫から委譲されたように、高野山全体が水銀鉱床と不可分の関係にある。

 横蔵寺については朱との関係が不明であるが、横蔵寺はミイラのある寺として有名である。即身成仏では水銀が用いられたことは広く知られている。そのことも横蔵寺が朱と関係している可能性を示唆しているように思う。

 

 日本で最大の水銀の産地は伊勢であるが、やはりというべきか伊勢にも深沙大將が祀られている。

 鈴鹿の神宮寺(真言宗)に平安時代(推定)の深沙大將が収蔵されているのである。作例が非常に少ない深沙大將が伊勢に祀られていることは朱と深沙大將の関係を補強してくれるのではないだろうか。

 

 金剛院は中生代には海底であったと考えられ、境内全体が巨大な石灰岩の岩盤の上に存在している。朱は火成岩から採取したとされるが石灰岩からの採取も可能であったとされる。かっては朱の採集が行われていたのかもしれない。

 

 金剛院には快慶作の執金剛神(しつこんごうしん)と深沙大將(じんじゃたいしょう)が所蔵されている。   高野山霊宝館の深沙大將も執金剛神と対になっており、この両像も快慶作である。

 この両像を併せて祀ることにどのような意味であったのだかという点も興味深い。

 

「金剛」という言葉は仏教、特に密教で用いられることが多い。

 ダイヤモンドを金剛石とよぶように、金剛とは本来、ダイヤモンドの意味である。そのことから貴重にして堅固なる仏の教えを金剛と呼ぶとされる。

 

 但し「金剛」という文字への連想からこの言葉は金(gold)の意味で使われていたのではないかと考えている。製作当初の執金剛神は美麗な金属の甲冑をまとい金色に輝く金剛杵を振り上げていたはずである。甲冑も金剛杵も金のイメージである。

 

 水銀と金はしばしば併せて用いられている。鍍金(めっき)の工程は金と水銀を併せて用いるのは勿論のこと金の混じった鉱石から金を取り出すのも水銀を用いる。

 金を含む鉱石を砕いて水銀と混ぜると水銀が金を融解する。それらを加熱して水銀を気化すると金を採ることができる。この方法は現在でも途上国で最も簡便な金の採取方法として使われている。

 

 執金剛神(しつこんごうしん)と深沙大將という組み合わせは金と水銀という不可分の存在から生まれたものではないだろうか。 

 

 

水銀の隠された歴史 

 

 水俣病で有名なように水銀は毒性が強い金属である。

 大仏建立の際には大仏の表面に金メッキを施す作業において膨大な量の気化した水銀が排出されたはずである。気化した水銀を吸引して関係者の多くが亡くなったにちがいない。この時に大きな環境破壊がおこり平城京から平安京への遷都の要因となったという指摘もある。

 

  水銀のもうひとつの一面は水銀が神仙思想に基づく仙薬として用いられたことにある。

 

 中国の医薬書「新修本草」には「(水銀を)久しく服用すれば、神明に通じ、不老で、身が軽く神仙となる」との記載がある。水銀が仙薬であったことは日本でも広く知られていた。「新修本草」は奈良時代平安時代には典薬寮医学生の教科書として用いられていた。

 

 水銀は金属でありながら液体となること、金をも溶かす力を持っていたこと、液体から気体へ、気体から液体へと容易に変化することなど特異な性質をもっていたことからそうした効能が信じられたのであろう。

 

 仙人は身体を飛翔させると信じられていた。水銀が気化することを観察して、水銀を服用することでそのような能力を人間も得られると考えていたのであろう。

 

 だが水銀は強い毒性をもつため服用を誤って死亡するものが多かった。冨貴や権力を手にした者が求めるのは不老不死の肉体である。権力者の多くが仙薬を服用した。唐王朝では歴代の22人の皇帝のうち6人が水銀中毒で死亡したともいわれている。

 

 

 丹後と若狭には不老不死にまつわる伝承が多い。

 

 秦の始皇帝が不老不死の秘薬を求めて日本に徐福を遣わしたとされる伝説が全国に残されている。その数は30ヶ所に及ぶが日本海側では与謝郡伊根町新井に伝えられている。

 

 日本が大量の朱を産出することは中国でも知られていたが、日本が仙薬の原料である朱を産出することは日本を仙人の国とみなすきっかけになったのかもしれない。もし徐福が日本に仙薬を求めて来航したなら、朱の産地である丹後や若狭を訪ねたのではないか?という推理がなりたつのではないだろうか。

 

  『丹後の地名』というサイトがある。近畿北部を中心に膨大な地名を網羅し、それぞれの地誌を詳細に調べておられる。私も常々参照させて頂いている。『丹後の地名』によれば舞鶴の福来という地名は徐福が青葉山を目指して向かう途中、当地を通過したのが由来という。真偽のほどは定かではないが興味深い。

 

 

 『若狭国風土記逸文(『和漢三才図絵』所収)によると、若狭には若い容貌のまま長生きした夫婦がのちに神となり、それにちなんで若狭の国と称したとある。「若狭」という地名が不老長寿の<若さ>に由来するのであるという。

 

  人魚の肉を食べて不老不死となり800歳の寿命を保った八百比丘尼は若狭の空印寺で入定したとされる。八百比丘尼の食べた人魚の肉とは常世の神の乗り物であるとされたジュゴンの肉であったといわれる。

 八百比丘尼に関する伝承が丹後から若狭にかけて分布しているが、若狭の国が不老長寿と知られていたこととつながるのだろう。そうした不老長寿のイメージの背景にあるのは若狭で多く朱が産したからではないだろうか。

 

 

 仙薬としての水銀については中国の神仙思想に起源を求める事が多いが、サンスクリットで水銀を意味する“rasa”(ラサ)は不老不死の秘薬をも意味する。水銀を駆使した不老不死の探求はインドでも行われていたのである。

 

 13世紀にインドを訪れたマルコポーロは「東方見聞録」のなかでインドのヨーガ行者について述べている

 

「かれらは大変に長生きで、いずれも150歳から200歳までも生きている。少食だが、栄養分の高い米とミルクを主に食べている。かれらは奇妙な飲物をとる。硫黄と水銀をまぜあわせ、毎月2回飲む。これが長寿のもとで、子どもの頃から飲み続けているのだ、ということである」    

 

 

 不老不死は人間の尽きせぬ願望であり、中国、インド、日本の広範な歴史のなかで追求され続けた。

 丹後、若狭の歴史もそのなかに溶け合っているようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 謎多き女神 豊受大神 『舞鶴歴史物語』その4

    

 

 伊勢神宮を初めて訪れた際に豊受大神(とようけおおかみ)を祀る外宮(げくう)の高札に気がついた。

 そこには「雄略天皇の御代に丹波の国から天照大神の食事を司る御饌都神(みけつかみ)としてお迎え申し上げました」と書かれてあり不思議に感じたことを覚えている。

(高札に書かれている「丹波」とは和銅6年に丹波、丹後、但馬に分かれる以前の国名としての「丹波」であるから、豊受大神は「丹後の女神」と呼んで差し支えないだろう。)

 余談だが伊勢神宮の「外宮」「内宮」はそれぞれ「げくう」「ないくう」と訓むのが正式である。

 

 豊受大神が伊勢に遷宮される経緯については『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』や『豊受皇太神御鎮座本紀(とようけこうたいじんごちんざほんぎ)』に書かれている。 

 天照大御神雄略天皇(第21代天皇)の夢に現れて「一所にのみ坐せば甚苦(いとくるし)」、また「大御饌(おおみけ)も安く聞食きこしめささず坐すが故に、丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神(みけつがみ)、等由気大神(とゆけおおかみ)を、我許あがりもが」と教え諭されたとある。即ち、天照大神自身のお言葉により「食物の神」である御饌津神(みけつがみ)としての豊受大神が丹後の「比治の真名井」(ひじのまない)から呼び寄せられたとある。

 

 皇祖神を祀る伊勢神宮が日本で最高の崇敬を受ける神社であることは言うまでもない。

 伊勢神宮では皇祖神である天照坐皇大御神天照大御神)を祀る内宮と衣食住の守り神である豊受大御神の外宮を併せて祀る。

 しかしなぜ、最高神である天照大神の元に丹後の女神である豊受大神が祀られているのだろうか?

 また内宮より先に外宮を拝する「外宮先祭」が行われるなど外宮の豊受大神に対して特別な崇敬が払われている点も気にかかる。

 

 豊受大神については不明な点が少なくない。

 丹後の祖神といっていいほどの存在でありながら不明な点が多すぎるのである。豊受大神は偉大にして謎多き女神といえる。

 

 舞鶴では最も社格の高い大川神社を筆頭に鹿原の阿良須神社(あらすじんじゃ)が豊受大神を祀っている。また田口神社、三宅神社、原神社など舞鶴各所に豊受大神を祀る神社が見られる。

 丹後国に属した加佐郡与謝郡竹野郡、中郡、熊野郡に大変な数の豊受大神とその同系の神が祀られていた。

 豊受大神は食物、穀物の女神であると考えられる。また保食神(うけもちのかみ)や稲荷神も同様に穀霊神、食物神の意味を持つと考えられることから、穀霊神、農耕神、食物神という共通点から稲荷、保食神などを豊受と同系の御饌津神(みけつがみ)と見ると丹後には大変な数の御饌津神の祭祀が行われていることになる。

 今日、豊受大神が丹後の女神であり、丹後の祖神的存在であることを意識されることは殆どないといって良い。そのことは少し残念な気がする。

 

 

 「丹波」(たんば)の語源となったのは「田庭」(たには)という言葉であったとされる。

 京丹後市峰山町には豊受大神丹波で稲作をはじめられた半月形の「月の輪田」、籾種をつけた「清水戸(せいすいど)」があることから、その地が田庭(たにわ)と呼ばれ、田庭が「丹波」(たんば)の語源となったという説がある。豊受大神の存在が丹波、丹後、但馬のルーツになった可能性があるのである。これほど重要な豊受大神であるが「古事記」には記述がなく「日本書紀」には僅かに一行の簡単な記述があるのみである。

 

  伊勢神宮における御饌津神(みけつがみ)とはいかなる存在であろうか。

  天照大御神の御饌都神(みけつかみ)として鎮座して以来約1500年、外宮の御饌殿で一日に2度、朝と夕方に神饌を奉納することが続けられている。これは「日別朝夕大御饌祭」(ひごとあさゆうおおみけさい)、あるいは「常典御饌」(じょうてんみけ)とも呼ばれる。

 

 私達も日常的に神仏に食物などを供えることがあるがそれらからの類推で豊受大神の役割を軽んじてはならないと思う。

 新嘗祭(にいなめさい)とは天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式である。また天皇即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を特に大嘗祭(だいじょうさい)という。新嘗祭大嘗祭)は宮中儀式のなかでも最も重要なものとされる。神前に食べ物を供えること、神前に供えられた食物を共食するということ自体に宗教的(呪術的)な意味があると思われる。天皇が各所の食物を食べることはそれらの食べ物を供した各所に権威を与えるものであると同時に天皇が各所を統べることを象徴していたのではないかと考えられる。また天孫降臨では天照大神天孫に種籾を授けることから稲作と皇室の関わりは大変に深い。

 

 

 

   豊受大神と羽衣伝説 

 

 豊受大神の出自は標高661メートルの高山である磯砂山(いさなごさん)に天下った天女だったされている

 磯砂山の山頂には美しい天女のレリーフが置かれ『日本最古の羽衣伝説 発祥の地』と記されている。

 

 最古の羽衣伝説とはいかなるものであろうか。「丹後風土記」に記された羽衣伝説の内容は概ね次のような内容である。

 

磯砂山の山頂に舞い降り羽衣を隠されて天に帰れなくなった天女老夫婦の子として引き取られる天女は万病に効く酒造りにたけていたため老夫婦は裕福となる。しかし老夫婦は天女を追い出し天女は流浪の末に奈具(なぐ)の郷にとどまる。天女は此の地で豊宇賀能売命とようかのめのみこととして奈具神社に祀られた

 

 

 

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)

  • 作者:筑紫 申真
  • 発売日: 2002/05/10
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 筑紫申真は「アマテラスの誕生」のなかでアマテラスが天つカミとして、日、月、雷、風などの自然現象を指すとして、そのカミが示現する(天(あま)降(も)り)ためのプロセスを次のように述べている

 

 まず神は舟にのってかけおりて、めだった山の頂上に到着します。それから山頂を出発して、中腹を経て山麗におりてきます。そこで、人々が前もって用意しておいた樹木(御蔭(みあれ)木(ぎ)とよばれる)に、天つカミの霊魂がよりつきます(憑依)。人びとは、天つカミのよりついたその常緑樹を、川のそばまで引っぱっていきます(御蔭(みあれ)引き)。

川のほとりに御蔭木が到着すると、カミは木からはなれて川の流れの中にもぐり、姿をあらわします(幽現)。これがカミの誕生です。このようにして、カミは地上に再生するのです。このような状態を、カミの御蔭(みあれ)御(み)生(あれ))とよんだのです。そしてカミが河中に出現するそのとき、カミをまつる巫女(みこ)、すなわち棚(たな)機(ばた)女(め)は、川の流れの中に身を潜(くぐ)らせ(古典はこのような女性をククリヒメとよんでいます)御(み)生(あ)れするカミを流れの中からすくいあげます。そして、このカミの一夜(ひとよ)妻(づま)となるのでした。これはむかし、日本の各地で、毎年一度ずつ定期的に、もっともふつうにおこなわれていたカミの出現の手続きでした。(「アマテラスの誕生」より)

 

 

神を迎える神聖な乙女が同時に織女でもあったことは重要である。

天照大神が天岩屋に隠れる原因となったのは須佐之男命(すさのおのみこと)が神聖な機織りの乙女(巫女)を死に至らしめたことによる。(この巫女は天照大神自身であるともいわれる)

 

羽衣伝説は神が天(あま)降(も)りするプロセスを反映していることが明らかである。

  池で水浴をしたとは池に依りついた神を水浴を通じて巫女に移すことであり、羽衣とは巫女が織女であったことを意味していたにちがいない。

 

 

 もうひとつ重要な点として磯砂山に降り立った神とは、かって彼方の海上から船で来航した異邦の人々の投影ではないかと考えられることである。 天(あま)と海(あま)が同音であることは興味深い。

 

 彼方の海上より来航せし人々は必ず、海岸近くの高山を目標として到来した。高山は航海上の目印であっただけでなく、航海の安全を祈願する場所であったはずである。想像を逞しくすれば長い航海の末に来航した人々は自分達を導いてくれた高山に上ってなんらかの宗教的儀式、航海への庇護に対する感謝をささげ、さらに土地の神々、土地の人々との融和の儀式を行ったのではないだろうか。

 

 

   豊受大神は酒の女神である

 

 地上に留まった天女は万病に効くという酒を作り、養父を富み栄えさせた。

 豊受大神の酒は単なる嗜好品というよりも不老長生の特別な薬効をもっていたと考えられる。

 

 丹後には不老不死に関する伝承が数多く存在する。代表的なものは次の4つと考える。

 

1 浦島太郎と竜宮の物語

2 人魚の肉を食べて八百年生きたと言われる八百比丘尼

3 丹後には日本海側で唯一徐福伝が残されていること

 

4 常世の国にでかけて非時香葉(ときじくのかくのみ)を持ち帰った田道間守(たじまもり)

 

 

 こうした不老不死にまつわる伝承の多さからも天女(豊受大神)の造った酒に特別な力があったことは重要である。

 

 当時の酒は口嚼酒(くちかみのさけ)であったと考えられている。

 口嚼酒は生米を噛んで水に吐き出すことで唾液中の澱粉分解酵素を利用し、空気中の野生酵母で糖化作用を促す原始的な醸造法である。

 

 ひとつ気になるのは「古事記」では大気都比売神(おおげつひめ)、「日本書紀」では保食神(うけもちのかみ)が口腔から食物を排出するという場面が描かれていることである。これらの神は口腔から排出した品で相手を饗応した結果、相手の逆鱗にふれて殺害される。

 口腔から物を出して饗応するという点で口嚼酒(くちかみのさけ)についてはこの描写が当てはまるように思う。また豊受大神保食神(うけもちのかみ)の娘であり保食神と同一とみなされることも気になる点である。

 

 2つの異なる文化が接触した場合にしばしば饗応という行為がみられる。

 共食共飲や贈答を行うことが最も平和的な交渉である。悪意がなく饗応しようとした大気都比売神(おおげつひめ)や保食神(うけもちのかみ)が殺されることは何らかの理由でそうした饗応が失敗した事実が反映しているのではないだろうか

 

「旨い酒ですな!」

「ありがとうございます」

「ところでこの酒はどのように造るのですか?」

「女性が口のなかで噛んだ米を吐き出してつくるのですよ」

「‥け、けしからん!(激怒)」

 

そんな“事件”があったとしてもおかしくない。

 

 

   流浪する女神の謎

 

 

 伊勢神宮に祀られている天照大神は日本で最高の崇敬を受けている神である。

日本書紀』の崇神天皇(第10代天皇)の代、宮中に天照大神倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の二神を祭っていたが、疫病の流行などの凶事があったことから天照大神を宮中の外で祀ることになった。天照大神は豊鍬入姫命(とよすきりひめのみこと)によって大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀られた。その後、天照大神は鎮座の場所を求めて90年あまり移動を繰り返す。

 

 鎮座の地を求めて天照大神が留まられた地を元伊勢と呼ぶ。元伊勢であることを伝える場所は60ヶ所にも及ぶ。

 大和国を離れて最初に遷座したのが丹波国である。

 くどいようだが丹波、丹後に分かれるのは和銅6年、女帝である元明天皇(第43代天皇)の時代であるから、大和国を離れて最初に遷座されたのは丹後の地であったことになる。

 

真名井神社『籠神社摂社』(宮津市江尻 )

皇大神社福知山市大江町内宮)

笶原神社舞鶴市紺屋)

竹野神社 (京丹後市丹後町宮)

 

 などが丹後にある元伊勢の比定地とされる。

 これらいずれかの元伊勢の地で丹後の女神である豊受大神天照大神のつながりがうまれたことが考えられる。

 

 垂仁天皇(第11代天皇)の第四皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神を伊勢の地に祀ったとされ、倭姫命伊勢神宮に仕える斎宮の起源とされる。

 垂仁天皇皇后の日葉酢媛命(ひばすひめ)の父は丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)であり、倭姫命青葉山の陸耳御笠(くがみみのみかさ)を征伐した彦坐王(ひこいますのみこ)の孫にあたる。最初の斎宮が丹後にゆかりの人物であることは、丹後の女神である豊受大神が伊勢に祀られる機縁のひとつであるように思われる。垂仁天皇は丹後の4人の媛を妃にした点で丹後とのゆかりが大変に深い。

 

 

 最高の神格をもつはずの天照大御神がなぜ、遷座地を求めて流浪し、当時は僻地といってよい伊勢に鎮座することになるのかという点は興味深い。

 実は流浪の女神という点で天照大御神豊受大神には共通点が存在するのである。

 磯砂山に天下った女神(豊受大神)も安住の地を求めて放浪したからである。

 

 

 

古代日本の「地域王国」と「ヤマト王国」〈上〉

古代日本の「地域王国」と「ヤマト王国」〈上〉

  • 作者:門脇 禎二
  • 発売日: 2000/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 宮津市の西側になる大宮町の町名にもなっているのが「大宮売」(おおみやめ)という女神を祀った大宮神社(おおみやめじんじゃ)である。

 大宮売神社は弥生時代後期の遺跡の上に作られていることが確認されており大変に古い神社である。

  

 神社近くにある大谷古墳は女性を一人のみ埋葬している。全国的にても女性だけを埋葬した古墳は僅かに10例未満である。

 被葬者は4世紀後期の首長的な女性であり、その女性を祀ったのが大宮売神社である。大宮売(おおみやめ)は当地の女性首長の存在を反映した地主神的な存在であったと考えられる。

 大宮売神社は「三代実録」の貞観元年(859年)に従五位上という高位に任じられ、また丹後国で二座並ぶのはこの大宮売神社だけであることから別格の扱いを受けて居ることが分かる。丹後地域の祭祀のなかで最も権威があったはずである。

 

 

 大和の元々の神、地主神である倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)に対して天照大神は他所から天下った神である。それゆえに並び立たず天照大神は長い放浪を続けたと考えられる。

 丹後の女性首長の祭祀に起源を持ち、元々の地主神で神ある大宮売(おおみやめ)と天から天下った豊受女神は並び立たなかった。これは全く同じ構造である。

 

 

 豊受大神は豊受が穀物神であり良く酒を醸したとされるが、大宮売(おおみやめ)は宮中の造酒司(みきのつかさ)の六座のうち四座を占めている。大宮売(おおみやめ)は宮中の酒の神なのである。

 

 大宮売神社の旧称は「周枳社」(すきしゃ)であり、住所は大宮町周枳(すき)である。

 大嘗会が最重要の宮中儀式であり、そこで供される米を供することは極めて重要な意味をもつことは述べたとおりである。

 大宮町周枳はこの大嘗会で天皇が用いる米である悠紀(ゆき)と主基(すき)を供する国に定められたことがあり、その由緒から周枳の名を使うようになったであろうと言われる。和名抄にすでに周枳の郷名が載っている。また稲作と酒造が密接に結びつくことはいうまでもないだろう。

 

 

  各地の国津神を宮中で祀ることで権威を与え、奉仕させることで大和王権のなかに編入することが行われたと考えられる。最重要の儀式である大嘗祭新嘗祭)に用いる米を供出させることもまた同様の意味があるにちがいない。大宮売(おおみやめ)は天皇を守護する役割の八神の一柱としても今でも宮中で大切に祀られている

 

 大和王権は戦争や武力だけではなく婚姻、通商という平和的関係によって地方の力を取り込んできた。当時は圧倒的に宗教や呪術の力が重大な意味をもっていたので地方の神を祀ることは地方の国々を融和する大切な行為であったと思われる。

 

 欽明天皇(第29代天皇)の時代に仏教が公伝したとされる。

 大和王権が仏教を積極的に採用した理由のひとつは鎮護国家によって国を庇護することであり、また当時の中国、朝鮮と伍するために必要だったこともあるが、仏教という統一的宗教によって各国の地主的神への信仰を弱める働きがあったのではないかと思われる。

 

 

海人の郷 『舞鶴歴史物語』その3

 

 

 

 『丹後風土記残欠』に舞鶴湾に汎海郷(おおしあまのさと)という大きな島があり大宝元年(701年)に一夜にして海底に没したという記事がある。

 

 

 

凡海郷者。

往昔。去此田造郷万代浜四拾三里。去□□三拾五里二歩。

四方皆属海壱之大島也。

所以其称凡海者。故老伝日。往昔。

治天下当大穴持命与少彦名命到坐于比地之時。

引集海中所在之小島之時。潮凡枯以成壱嶋。

故云凡海矣。

于時。大宝元年三月己亥。地震三日不已。此郷一夜為蒼海。

漸纔郷中之高山二峯与立神岩出海上

今号云常世嶋。亦俗男嶋女嶋。

毎嶋在神祠。所祭者。天火明神与日子郎女神也。

是海部直並凡海連等所以斎祖神也。

 

 

 

凡海郷は

田造郷の万代浜から四十三里 □□から三十五里二歩に位置する

四面皆海に囲まれた一つの大島であった

凡海と称する所以は 故老の伝て曰く 昔

天下を治めるに当り大穴持命と少彦名命がこの地に到った時に

海中の小島を引き集めた時 潮が凡て枯れて一つの嶋となった

故に凡海と云う

大宝元年三月己亥 地震が三日続き この郷は一夜にして蒼海となった

漸く郷中の高山二峯と立神岩が海上に出ているのみである

今では常世嶋 亦は男嶋女嶋と呼ばれている

嶋毎に祠が在り 天火明神と日子郎女神が祭られている

これは海部直並びに凡海連等らが斎祭る祖神である

 

 

 

 

 

 汎海郷(おおしあまのさと)が海底に没したという伝承は昭和に入って行われた地震学の調査で否定されているようである。一方で「続日本記」に大宝元年に「丹波国地震三日続く」とあり、飛鳥時代に京都北部を襲った大地震「大宝地震」があったことは確実と考えられる。

 

 近年、舞鶴湾の海底に階段状の遺構が発見された。これこそが汎海郷の遺物ではないかと注目を集めたことが記憶に新しい。子供の頃、アトランティス大陸ムー大陸といった失われた大陸の伝説に胸を躍らせたが、地元にそうした伝承があることを愉しく思う。

 

 「汎海」(おおしあま)とは海人の一氏族の呼称でもある。ここでは水上交通に長けた人々を便宜上「海人」という言葉を使うが、その活動は海だけではなく河川、琵琶湖などの淡水湖でも広く及んだ。その一部は内陸部に移動し、陸上でも活発に活動をおこなった。そうした人達が縦横に活躍し歴史の大きな原動力になった時代があった。 

 

 現代の海人といえば漁業、海運、造船に携わる人々ということになるが、実は私達は無意識のうちに歴史を陸地から見ている。その頭を切り替えないと恐らく本当の姿は見えてこないのかもしれない。

 

 海上交通の安全を祈願した神は多いが陸上の交通を祈願した例は不思議なほど少ない。そのことは長らく交通の中心が海上であったことと関係するらしい。

 

 中国大陸から日本列島を俯瞰すると大陸と日本を隔てる日本海が驚くほど小さく感じられる。日本列島を逆さになるように世界地図を広げると日本海はアフリカ大陸とヨーロッパ大陸に挟まれた地中海の如くに思える.

 

 地図を見ると複雑な海岸地形がいかにも良港のように見えても、喫水の浅い古代の船にとって海面との高低差があると接岸することは容易ではない。接岸に容易な良港は海流によって堆積した砂礫(されき)が積もってできた地形であった。

 砂礫が堆積すると砂嘴(さし)などの地形が発達する。天橋立の美しい松並木の下にあるのは海流をよって運ばれた砂礫である。

 

 陸地の湾曲と砂礫によって波の穏やかな内湾が作られ潟湖(せきこ)などの地形が形成される。そうした内湾は船が停泊するのに最も適した環境であったにちがいない。日本海沿岸には遠浅で波の穏やかな内湾が点在したことは航海を容易にしたはずである。

 

 平成7年から大浦半島の浦入(うらにゅう)では関西電力舞鶴発電所建設工事に先立つ発掘調査が本格的に行われ、縄文時代から平安時代にかけての集落遺構や製塩遺構、古墳の存在などが判明した。

 

 浦入(うらにゅう)には300メートルもの砂嘴が形成され「日本最古の船着き場」として報道された。桟橋用とみられる杭や碇(いかり)用の平石も見つかっている。また浦入では5000年以上遡る時代の世界でも最古級の丸木舟が発見されている。

 

 舞鶴海上にあった汎海郷(おおしあまのさと)が事実とすれば浦入はこの汎海郷(おおしあまのさと)に面していたと考えられる。「加佐郡誌」は大浦および由良川下流一帯を「汎海郷」としている。

 

 

 

 天皇即位式では夕に食べる「悠忌」(ゆき) 朝に食べる「主基」(すき)の大嘗会があり、天武天皇(第40代天皇)が即位した時に「主基」(すき)は加佐郡からもたらされ、その地が大浦の千歳あったと「田辺府誌」に記されている。

 

 壬申の乱大友皇子(おおとものおうじ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)が抗争した古代日本最大の内乱であるが、大海人皇子は第40代天武天皇として即位する。

 大海人(おおあま)という名称がしめすように天武天皇の養育には海人である凡海麁鎌(おおあまのあらかま)が関わったとされ、それが千歳から「主基」(すき)がもたらされたこととつながるのかもしれない。(「汎海」は「おおあま」と訓むことも可能である。)

 

 鹿原の阿良須神社(あらすじんじゃ)は豊受大神を祀るが、天武天皇の第一王子であった高市皇子ゆかりの神社でもある。高市皇子の母は宗像系の海人である。

 

 また阿良須神社は近世初頭まで「大倉木社」(おおくらきしゃ)と呼ばれていた。

 そこに祀られている大倉岐命(おおくらきのみこと)については宮津籠神社(このじんじゃ)に伝わる日本最古の竪系図である国宝「海部氏系図」に記載がある。海部氏に一六世大倉岐命という人物があり、最初の丹波国造(たんばのくにのみやつこ)であったとも伝えられる。阿良須神社近くの一帯を小倉と呼ぶが、小倉という地名もこの大倉岐命(おおくらきのみこと)にちなむものと考えられる。

 

 また「海部氏系図」によれば大倉岐命(おおくらきのみこと)は桑田郡大枝山(現在の老ノ坂のあたりであろうか?)で大蛇を退治した功績により丹波国造に任じられたとある点も興味深い。

 

 すっかり「陸人」になって私達にとって海人の自由さは理解しづらい。

 

 

古代海人の世界

古代海人の世界

 

 

 

 

 戦前まで若狭小浜には沖縄本島の最南にある糸満の漁師が毎年のように漁にやってきたという。

 丹後には浦島太郎や八百比丘尼のように海にまつわる不老不死をモチーフとした伝説が多いことも、こうした南方系海人の活動と関わりがあるように思う。

 海は人を隔てるのはなく結び合わせるものだった。その海を自由に往来できた海人は舞鶴にも多く存在していたと考えられる。舞鶴には海人の痕跡が多数のこされている。それらの海人の活動が日本史の大きな流れと深くつながっているようである。

 

 

 

 日向の高千穂に天孫降臨し降り立った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は豊かな安住の地を求めて「笠沙」(かささ)に至る。笠沙は野間半島(鹿児島県南さつま市笠沙町)の一帯であったとされる。

 笠沙の“沙”とは船着きの海岸地形を連想される。“笠”とは航海の目印となっていた野間岳であったと考えられる。

 

 古代の人々は三角錐、円錐形の山を神聖視し、海岸近くにある特徴的な山は航行の目印となった。

 航海の目印として星など天体を利用することを天文航法といい、陸上の地形を航行の目印とするのが地文航法である。日本海沿岸では地形による地文航法が盛んであったと考えられる。

 

 海岸近くの山や海岸近くにはえる高木は航海のための地文であると同時に航海の安全を祈願する対象でもあった。私達は山と海を反対語のように考えることが多いが、古代の人々にとって山の神は航海の安全を祈願する海の神でもあったと考えられる。

 

 

富嶽百景・走れメロス 他八篇 (岩波文庫)

富嶽百景・走れメロス 他八篇 (岩波文庫)

  • 作者:太宰 治
  • 発売日: 1957/05/06
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 太宰治が「富嶽百景」で書いたように名峰富士山は少し裾野が広がりすぎている。それに対して福井方面から観る青葉山はバランスの取れた見事な三角錐である。人々がこの秀麗な高嶺に特別な意識を持ち続けたことは間違いがない。

 

 青葉山は東西に2つの峰を持つことから、沖を航行する船から観る山の形で自分の位置を知る「山あて」が可能であったことも特別な存在であったのはずである。

 舞鶴の旧称である加佐郡については諸説あるが、この地に豊受信仰が盛んであり、豊受の「受」を「かさ」と呼んだことからの呼称とされる。ただなぜ「受」(うけ)が「かさ」と読まれるのかその理由は定かではない。

 (青葉山を『笠』と呼んだこともあったことから加佐郡という名称が生まれた可能性を考察しても良いのではないかと考えるのだが。)

 

 

 丹後の古墳文化は顕著なものがあり、日本海側の古墳の上位三位を占めているのが次の3つの古墳群である。

 

 

 網野銚子山古墳(京丹後市網野町網野)全長一九八メートル

 神明山古墳(京丹後市丹後町宮)全長一九〇メートル

 蛭子山古墳(与謝郡与謝町明石)全長一四五メートル

 

 

 大和王朝を除く地域国家のうち最大のものが出雲であったが、出雲で最大の古墳は島根県出雲市今市町にある今市大念寺古墳(いまいちだいねんじこふん)である。だがその全長は九二メートルであり、丹後の三大古墳が突出して巨大であることが分かるだろう。

 

 

 神明山古墳は全長一九〇メートル、後円径一二九メートルの巨大古墳であるが、潟湖である竹野湖のほとりにあり古代の海岸線と平行に築造されている。葺石が貼ってある墳丘は海から目立って視えたに違いない。

 

 日本最大の古墳であり「百舌鳥・古市古墳群」として世界文化遺産として登録された大仙陵古墳仁徳天皇陵)も築造当時は現在より遥かに海岸線に近く、海を往来する人々にその威容を示していたはずである。

 

 古墳は長らく権力者の墳墓と考えられたが、このように海を意識した構築物でもあったことは興味深い。

 古墳は公共事業や臨海開発の側面をもっていたともいわれ、古墳で交易が行われたという説もある。古墳は先進技術を駆使して作られ、港湾と一体化した商業的、交際的施設だったのだろうか。

 

  丹波、丹後、若狭の重要性のひとつが日本海沿岸の海上交通であったことは間違いない。

  特に当時の海上交通は鉄資源の搬送と不可分であったと考えれる。朝鮮の鉄資源の輸送が政権の権力を左右するほどの重要性を持っていたと推測される。

 その主要ルートは長らく瀬戸内海を経由するルートと日本海沿岸のルートであったが、その担い手は海人達であった。日本海側、特に丹後に巨大な古墳が築造されたことはこうした日本海ルートの重要性と結びついていることは間違いない。

 

 海人という言葉から海上交通に関わる人々を連想するが、海人の活動は海運や漁業は勿論、製塩や冶金にも大きく関わった。谷川健一は海人が金属の精製に深く関わったことを指摘している。大海人皇子を養育した凡海麁鎌(おおあまのあらかま)は大宝元年に冶金のために陸奥国に派遣されたことから、麁鎌が鉱山採掘や金属精錬に詳しい人物であったともいわれる。

 

 

海人氏族と地名

 

 

 

 

 

 海人は多くの氏族に分かれており、大きくは安曇(あずみ)、宗像(むなかた)、大和(やまと)の3系列15氏族が知られている。「日本の古代8 海人の伝統」のなかに丹後の海人と地名について書かれているが、「わだ(わた、はた)」、「あかし」、「あま」に類する地名が海人に由来するものであるとしている。

 

現在地名でで海人関係を拾えば舞鶴市加佐郡)に和田・八田、大江町に(加佐郡)に和田垣内、宮津市(同上)に由良・畑、加悦町(与謝郡)に和田・明石・明石岳、網野町竹野郡)に和田、丹後町(同上)に畑、弥栄町(同上)に和田野、畑、船木、久美浜町熊野郡)に海士・畑があり、およそ海人に事欠かない。(「日本の古代8 海人の伝統」)

 

 大阪の岸和田をはじめ瀬戸内海、大阪湾、熊野に多数の<和田>系地名が存在するが、倭太(わた)という海人氏族にゆかりの地名であるという。「わた」という言葉から思い起こされるのは海神を意味する「わたつみ」であろうか。

 

 

 倭太氏の祖先は椎根津彦命(しいねつひこのみこと)をとされるがこの椎根津彦命は神武天皇の東征を導いたとされる海の民である。<和田>地名は瀬戸内海、大阪湾、熊野など神武天皇の東征のルートに沿って分布していて興味深い。

 

 大阪の岸和田も中舞鶴の和田も海人に由来する地名としてつながるというのは面白い。

 国鉄若狭和田駅のある和田という地名が思い起こされる。高浜には小和田(こわだ)という地域があり。小和田古墳という墳墓が発掘されている。石矛と石剣を重ねて埋葬するという特異な副葬品が有名である。

 

 海人である「倭太」が「田」や「畑」など農業的な文字に置き換えられると海人とは真逆の印象になってしまう。これも陸からものを観る私達の習慣なのかもれない。

 

 

耳なる人々

 

 『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(みみ)」および「彌彌那利(みみなり)」がいたことを記している。

 『古事記』、『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(すえつみみ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(みしまみぞくいみみ)、丹波地方に玖賀耳(くがみみ)、また但馬地方に前津耳(まさきつみみ)が記録されているが、いずれもその地方の首長であったと考えられている。『出雲国風土記』には波多都美(はたつみ)や伎自麻都美(きじまつみ)など「み」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である。

 

 また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(すがのやつみみ)、布帝耳(ふてみみ)、鳥耳(とりみみ)、多比理岐志麻流美(たひりきしまるみ)、天日腹大科度美(あめのひばらおおしなどみ)も地域的首長と考えられる。

 

 

 土偶のなかには大きな耳を特徴としたものが見つかることがあり、実際に大きな耳飾りをつけるなどして耳朶を大きくするような身体加工を行っていた海人もあったも考えられる。

 

 

 海人の一部は騎乗騎射を好むとあって大変に精悍で剛強な一族であったとも考えられ、蝦夷熊襲のイメージに近い習俗についても記録されている。崇神天皇(第10代天皇)の時代に討伐された青葉山の玖賀耳御笠(くがみみのみかさ)もそのような存在であったのかしれない。

 

 

 

 大浦半島にある舞鶴自然文化園の入り口辺りが三浜峠である。

 麓の赤野から三浜峠に至り反対側に下ると三浜に至る。緩やかなカーブを繰り返しながら下ると眼の前に海がひらけのどかな海村の風景が広がる。明澄な海岸、砂浜と松林、さらに沖に浮かぶ冠島、沓島、アンジャ島、磯葛島、沖葛島などの連なりが見える。地元の方には特別ではない風景だろうが見慣れない者には心洗われる眺望である。

 

 毎年1月18日には海蔵寺臨済宗東福寺派)で三浜の経箱行事とよばれる祈祷会が行われる。

 多禰寺(真言宗東寺派)の住職が海蔵寺の本堂にて大般若経を加持する。当地の子供が裃という古式の装束でこの経箱を持ち村の各家を回る。

 こうした古式床しい行事が連綿と続くことは海の関わる人々が航海の安全や豊漁を祈って古来の信仰を固く守り続けてきたからであろう。

 

 三浜には興味深いテーマがいくつも眠っているが、その一つは当地の三浜(みはま)という地名そのものである。

 同じ大浦に千歳があり旧称は「波佐久美」(はさくみ)であった。

 丹後では三津、三原、久美浜、三原など「ミ」音の共通する海浜の地名が多い。

 さらには香住(かすみ)、居組(いぐみ)、陸上(くがみ)、岩美(いわみ)など山陰の日本海側にこうした地名を見ることができる。

 若狭では福井県美浜町に耳村があり、耳川という河川がある。美浜という地名も恐らくは耳浜だったのであろう。

 

 「古事記」には崇神天皇(第10代天皇)の時代に日子座王(ひこいますのみこ)による陸耳御笠(くがみみのみかさ)退治の記事が残されているが、同様に但馬の海岸にも広く日子座王(ひこいますのみこ)による陸耳御笠(くがみみのみかさ)退治の伝承がのこされていることから陸耳御笠が海人系であった可能性が高いと思われる。

 

 

 

 宮崎県日向市美々津町には「日本海軍発祥の地」という碑がある。

 耳川(美々津川)の河口にある美々津(みみつ)から神武東征の出発地であることにちなむものである。

 

 神武天皇は日向を発しその多くを海路によって宇佐、安芸国吉備国、難波国、河内国紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原に宮を定める。

 

 天皇家の始祖である神武天皇には海人と共に行動した“航海王”の側面がある。そして多くの海人に助けられたことが印象的に記されている。

 

 

 

 

 

海人と蛇

 

 

蛇 (講談社学術文庫)

蛇 (講談社学術文庫)

  • 作者:吉野 裕子
  • 発売日: 1999/05/10
  • メディア: 文庫
 

 

 

 蛇に対する信仰は縄文時代より続くものであり、仏教以前の精神世界のなかで大きな位置を占めていたと思われる。

 古代の人々は山をトグロを巻く蛇に見立てたように、海上に浮かぶ島々にも神である蛇の姿を見たことは容易に想像できる。

 三浜沖の磯葛島には大蛇の伝説が伝わり、これも古い蛇信仰の痕跡ではないかと思われる。

 

 古代の海人の多くが自分達の祖先を海底の龍蛇と捉え、体に鱗など入れ墨をする習慣があったとされる。海人に入れ墨の習俗があることは「魏志倭人伝」にも記述がある。人類学者の金関丈夫は海人が胸に入れ墨を入れる胸形(むねかた)が海人の名称である宗像(むなかた)になったという説を唱えた。また緒方姓の由来は同様に龍蛇の尾の入れ墨(尾形)に由来するともされる。海人の代表的存在である安曇氏も眼のふちに入れ墨をして安曇目と言われた。

 

 

 海人は天皇家と深く関わる一方で排斥されたものも少なくない。

 大蛇を退治するという伝承と鬼退治が関わる可能性について述べたが、竜蛇などの入れ墨をした集団、もしくは竜蛇を信仰する集団との闘争を大蛇退治になぞらえることもできるのではないだろうか。

 

 舞鶴湾の烏島山頂には弁天堂があり巳の日に佐波賀地区で祭祀が行われる、。

 弁財天の信仰は龍や蛇への習合しており古代の蛇信仰はこうした仏教のなかへ包摂されていった可能性があるのではないかと考えられる。

 

 金剛院の本尊として最初に勧請されたのは高野山の弁財天であったと伝わる。

 金剛院を開いた高岳親王は海の祈祷所である鎮海軒で祈祷を行ったとされるが、水の神である弁財天に祈願を行った可能性が高い。鎮海軒があったのは舞鶴海軍鎮守府の初代長官であった東郷平八郎の官舎の辺りであったという。

 海上交通は常に遭難の危険が伴うので必然的に安全への祈願を通じて様々な信仰が生まれた。なかでも十一面観音や金毘羅信仰は龍蛇との関わりが濃厚である。

 

 日本仏教は神道と融合し、諸尊諸仏並びに諸神を祀る。特に密教では複雑で多様な尊格が信仰され、そのなかに古代の精神世界は吸収されていったのかもしれない。古代の信仰の中心であった山への畏敬も修験道など仏教との習合により融和していったのかもしれない。

 

 本堂の屋根から突き出した部分を向拝(こうはい)と呼ぶが向拝の彫刻にはしばしば龍が用いられる。近世に北近畿一円の神社仏閣に大きな足跡を残した彫刻家の集団が中井権次一統であり、多禰寺、金剛院の本堂正面には欅(けやき)の一木から彫り出した龍の彫刻が掲げられている。龍は雨風を呼ぶので火災に逢わないことを祈願したとも、仏法を守護する霊獣であるともいわれるが、それらも古代の蛇信仰の末裔なのかもしれない。

 

 古代の蛇信仰はあるものは闘争のなかで排斥されることもあったと思われるが、様々な信仰のなかに穏やかに包摂されていったものもあったに違いない。

 

 金剛院の海の祈祷所であった鎮海軒の寺基を継いだのは室町時代の傑僧である春屋妙葩(しゅんおくみょうは)であり、雲門寺(臨済宗天龍寺派)の開祖である。春屋妙葩は蛇島の竜神から「竜の玉」を得たとも言われ、こうした伝承も蛇信仰の行方に関わるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

殺された大蛇の記憶 『舞鶴歴史物語』その2

 

 

 

 

舞鶴の大蛇伝説

 

 青葉山の大杉地区は名水の里として知られる。大杉神社境内に湧く清水は「大杉の清水」として『平成の名水百選』に選ばれた。日量2000トンという豊富な湧水量を誇り、優れた水質は銘酒「大杉」の源水となっている。

 

 大杉神社には大蛇の伝説がある。

 大杉神社に大蛇が現れてこの名水を飲むと不思議なる力を発揮し三本の杉を巻きしめて一本の大きな杉に成したとの伝説が伝わる。

 さらには青葉山の麓である福井県にも退治された大蛇の伝説と蛇塚の言い伝えが残っている。

 

 舞鶴には大蛇、竜神にまつわる伝説が多数残されている。

 

 毎年8月14日に城屋にある雨引神社にて行われる「城屋の揚げ松明」は高さ16mの大松明に、地元の青年たちが火のついた小松明を投げ上げて点火する伝統民俗行事であり、京都府無形民俗文化財にも登録されている。この「城屋の揚げ松明」もまた大蛇退治の伝説と共に伝わったとされ、雨引神社は『蛇神様』として祀られている。

 

 藁製の大蛇を引き回す“エントンビキ”などの行事が現在でも市内に多数残されていることも舞鶴の大蛇伝承を考える手がかりになるだろう。

 

 祀ることは崇敬と鎮魂の意味合いがある。また鎮魂された存在がその威力を恵みとして与えてくれることもある。近世の鬼退治伝承では勧善懲悪のなかで語られることが多いが、古くは敗者にたいして特別な畏敬が与えられた。

 

 

 舞鶴で最も有名な大蛇伝説は与保呂(よほろ)に伝わるものである。

 

 おまつという娘の悲恋から大蛇が退治されるものである。退治された大蛇の体は岩に当たって断ち切られ、大蛇を断ち切ったという蛇切岩が現在も残っている。その蛇の頭は日尾神社に、胴を行永の堂田宮に、尾は大森神社に祀った。

 

 

蛇神と杉と松

 

 奈良県桜井市の三輪神社は日本の古社のなかでも最も古い神を祀る古社である。

 神社とは神が常住するというのは後世の考え方であり、恐らくは仏教の影響によるところが大きい。三輪神社の御神体三輪山であり、三輪の神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は蛇であるとされている。

 

 大神神社のご神木は杉である。三輪の神は美酒を醸すという伝承があり、酒の神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の霊威が宿る杉の枝を酒屋の看板とする風習が生まれ、軒先に酒ばやし(杉玉)を吊るすようになった。

 三輪の枕詞は味酒(うまさけ)で、「味酒(うまさけ)の三輪」は万葉集にも詠まれた。大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は酒の神とされた。杉が霊木とされたことは舞鶴の大杉の故事を思い出させる。杉と大蛇という結びつきは深いものであるらしい。

 

 日本で最も有名な大蛇といえば素戔嗚尊(すさのうのみこと)によって退治されたヤマタノオロチである。

 退治されたヤマタノオロチの頭部は埋められ、その上に杉を植えたとされ「八本杉」とよばれる霊木が残されている。八本杉は島根県南雲市にある斐伊神社(ひいじんじゃ)の境内地にある。

 このことも明らかに杉と大蛇との関係性がみてとれるのではないだろうか。

 

 杉の樹皮が蛇の体表を連想させるのかもしれない。

 また高木に成長した杉に落雷することも多かったと考えられ、雷神としての蛇との関係も考えられよう。

 

 蛇が水神として酒の醸造につながることが考えられる。三輪神社、京都最古の古社である松尾大社の神が共に酒を司ることはヤマタノオロチの退治に酒を飲ませることともつながるのかもしれない。

 

 酒樽など醸造に関わる道具の多くが杉材で作られていた。

「麹蓋(こうじぶた)」と呼ばれる麹を育てる木箱も杉材であった。

 現在の醸造はホーロー製の金属タンクで行われるが、古来の杉材の樽を使用すると杉の香気が加わるとされ、そのことも杉(蛇)と醸造の関係に意味を加えていたに違いない。

 

 賀茂神社は『山背国風土記』に記録が残る京都最古の古社であるが、賀茂神社御神体は神山(こうやま)である。

 社殿の前には神山(こうやま)を模した円錐形の立砂が作られている。そして立砂の先端に松葉が挿してある。

神の山と神の依る松とを極めてシンプルに表現しているように思う。

 

 神はまず山の上の松を依り代として降り立つとされていたのである。松の語源も神を「待つ」とも「祀る」とも言われる。杉、松、榊、竹、檳榔(びろう)などの常緑植物は神の依代として特別視された。

 

 杉、松、榊、竹は門松のように宗教的に用いられることが多いが、古代においてそれらよりも特別視されたのは檳榔(びろう)であった。

 

 ヤシ科の常緑樹である檳榔(びろう)は公卿の牛車の屋根材や大嘗祭においては天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材として用いられているなど大変に神聖な植物と考えられた。

 

 

 

 

 

神なる蛇

 

 神話を絵画にした場合、神々は麗しい男女として描かれることが多いがそのことは果たして正しいのだろうか?

 

日本の国産みを為したイザナギイザナミという男女の神々に大きな影響を与えたと考えられるのは古代中国の女媧(じょか)と伏義(ふぎ)という男女の神である。

 女媧(じょか)と伏義(ふぎ)が上半身は人間で下半身は長大な蛇の姿をし、絡み合っている図像が残されている。これと同様の図像がインドの龍神ナーガと竜女神ナーギーの姿として残されている。

 絡み合う姿というのは蛇の交接する姿であり、そのことはイザナギイザナミがが国土創生のために交接したことと関わるように思われる。古事記においてイザナギイザナミが柱を左右からめぐるという姿は実は蛇が中心線を螺旋状に絡み合う姿に一致するように思う。

 結界として張られる注連縄(しめなわ)も二体の蛇がよりあわさった姿であるとされることもある。

 

 「古事記」を日本人のルーツとして日本人の最も古い姿を読み取ろうとする試みもあるが、実は「古事記」には外来の思想や文物が随所に織り込まれている。

比較神話学の視点からは日本の古代神話には南方の神話や伝承と類似していることが指摘されている。

例えば日本国の始原である国産みそのものも同様の物語がポリネシアを中心にメラネシアミクロネシアに分布が見られるという。(筆者はインド神話の乳海撹拌を想起してしまうのだが)

 

  日本で最古級の神である三輪神社については次のような逸話が有名である。

 

 倭迹迹日百襲媛命(やまとももそひめのみこと)は三輪山の神である大物主神(おおものぬしのかみ)の妻になった。しかしこの神はいつも夜にしか姫のところへやって来ず姿を見ることができなかった。百襲姫は夫にお姿を見たいので朝までいてほしいと頼んだ。翌朝明るくなって見たものは夫の美しい蛇の姿であった。百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて三輪山に帰ってしまった。百襲姫はこれを後悔して泣き崩れた拍子に、箸が陰部を突き絶命してしまった(もしくは、箸で陰部を突き命を絶った)。百襲姫は大市に葬られた。時の人はこの墓を箸墓と呼んだという。

 

 

 倭迹迹日百襲媛命は卑弥呼であったする説もある重要な人物であるが、この逸話からも神の本体が蛇とされたことは明らかである。

「たまたま三輪山の神が蛇であった」のではなく、多くの場合に神の正体が蛇であることを読み取るべきなのだと感じる。現代の私達が想像する神のイメージは恐らく人間に近い容姿ではないだろうか。白衣に白髪の老人などはその典型であろう。しかし古代においては蛇が神として祀られ畏怖された例が大変に多い。

 

 

 蛇に対する信仰は世界中に見られる。普遍的と言って良いだろう。

 蛇に対する信仰はエジプトに始原を持ち世界中に伝播したとも言われるが、蛇という特徴的な生き物に接した人々の間で同時発生的に生じたものなのかもしれない。

 

 旧約聖書のなかで最初の人類であるアダムとイブが生まれたが、イブをそそのかすのは蛇である。そこには蛇が人間より智慧ある存在として描かれているように思う。

 

 

 蛇はなぜ人類に畏怖されたのであろうか?

 

 人類の祖先が樹上で暮らしていた頃に恐ろしいものは<落下すること><暗闇>、そして<蛇>であったという。なめらかな体で樹上に這い上がってきて襲いかかる蛇は恐怖であったに違いない。

 

或いは恐竜の時代に既に出現したという私達の遥か遠い先祖を圧倒するように君臨していた巨大な爬虫類の記憶であるのか‥私達が蛇に抱く畏怖や嫌悪感のなかには世代を超えて祖先から受け継がれた古い記憶があるのかもしれない。

 

 

 

蛇の属性としては

 

智慧あるもの

生命力(生殖力)

脱皮(再生)すること

冬眠を経て再び姿を現すこと

蛇の持つ毒の脅威

蛇は穀類を食べるネズミを脅かすこと

 

などが指摘されるが、古い伝承や神話には次のような特別な神格が与えられている。

 

水神 雷神 金属神 樹木神

 

 特に雷は「神鳴り」であり、霊力ある存在として格別に畏怖された。

 

 落雷による激甚なる破壊や火災は恐怖の的であったと思われる。

 また十分な灌漑設備を持たない時代には雨による降水が作物の生育を決定的に左右していた。

 水をもたらすのは雨雲と雷鳴である。雷は破壊だけでなく恵みをもたらす存在でもあったといえる。

 

 雷を神聖視して落雷した区域に注連縄をはる風習が残されている。雷が豊作をもたらすという伝承も広く信じられているが、近年の研究で放電により空気中の窒素が水に溶け込むことで植物の成長を早めるということが指摘されている。自然を観察することに長けた古代の人々はそのことに気がついていたに違いない。

 

 雷としての蛇神の性格は複雑に結びついている。

 

  雷→雨(水)

  雷→高木(樹木)に落雷すること

  雷→金属に落雷すること

 

 

特に

 

   神=蛇=雷

 

という関係性によって読み解くことのできる問題は大変に多いように思う。

 

 漢字の『神』を構成する<申>は雷を表すという説もあり、中国においても神は雷と結びついていた。

 

 奄美大島では雷のことを「ティングロジャ」(天の大蛇)あるいは「グロジャ」(大蛇)と呼ぶことが報告されている。

 

 

常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)では晡時臥山(くれふしやま)の伝説が著名である。

 

 茨城の郷の女性のもとに見知らぬ若者が夜になると訪れ、娘は懐妊したが産み落としたのは小さな蛇であった。小蛇がだんだんと大きくなって養いきれなくなり、母のもとを去るときに別れ際に母の兄を雷撃で撃ち殺したという。

 

 この逸話も神が蛇であり、雷神であったことと密接に関係しているように思う。

 

 民俗学的観点から蛇について考察を加えた吉野裕子によれば、蛇の古語は「カカ」「ハハ」であり、神(かみ)という言葉の語源も「カ(蛇)」と「ミ(身)」に由来するという。

 

 吉野裕子の研究は強引に蛇に結びつける傾向があり注意を要するが、神の語源そのものが蛇であるというのは記憶にとどめておく必要があると思う。

 

 

 

雷雲の神話 (1978年)

雷雲の神話 (1978年)

 

 

恐ろしき生き物の痕跡

 

 大蛇(龍)などの爬虫類型のモンスターは世界中の伝承や神話に見られる。

 それらの一部は実在した恐竜などの化石から発想されたものもあるのではないだろうか。

 

 1770年にオランダ南東部にあるマーストリヒト採石場で巨大な爬虫類の顎の骨が発見された。この骨は『マーストリヒトの大怪獣』として展示された。“大海獣”とされた骨はモサササウルスの顎の骨であった。モサササウルスは海に住む巨大な爬虫類で映画「ジュラシック・パーク」でもお馴染みである。四肢がヒレになった巨大な海獣である。「モサササウルス」とは<マーストリヒトのトカゲ>を意味する造語である。

 

 陸上の覇者であった恐竜の化石は1882年にイギリスで発見されたイグアノドンでるからモサササウルスの骨格の発見はそれに30年余り先立つことになる。

 1908年にはアメリカでカモノハシ恐竜の一種である1908年にアメリカでミイラ状の化石で発見された。かっては恐竜など古代生物の骨格が地表に露出していることすらあったとされる。こうした巨獣の骨格はアジアの龍や大蛇、西洋のドラゴンといった爬虫類型のモンスターを生み出すヒントになったのではないだろうか。

 

 

 鬼は言うに及ばず、俵藤太に退治される巨大なムカデ、そして大蛇など伝承のなかの生き物が実際に存在したとは考えにくい。ではなぜそのような巨大な怪物が想像されたかについては興味深い考察が可能である。

 

 古代人にとって地下から採掘される鉱物資源は極めて貴重なものであり、精錬された金属は富や権力の源泉になるほどの存在であった。そうした採掘のなかで発掘された化石などは古代の人々の想像を大いにかき立てたにちがいない。

 想像を逞しくするなら、細く長く地下に続く坑道は蛇やムカデが好んで地下の狭い空間を棲み家とすることを想像させたのではないだろうか。

 

 蛇が自分の体の上に体をかさねてトグロを巻く姿を古代の人々は特別視したとされる。

 形の整った山、多くは三角錐や円錐の山が御神体とされた。そうした整った山の姿に蛇の姿を感得したのである。

 

 全国に「モイワ」「モヤ」という名称の山が存在する。アイヌ語で神のいる山という意味であるとされる。

青森の雲谷峠(もやとうげ)、靄山(もややま)秋田県の茂谷山(もやさん)など形の整った特別な山を神聖視したことともつながるように思う。

 

 笠山、傘山、笠置山などの名称の山が沢山ある。

 もともと笠は呪術的、霊的な力をもつものと考えられていた。

 地蔵に笠を供えることで幸せになる「笠地蔵」という民話が知られているが、聖物である笠を地蔵に供えることが本来行われていたことが反映しているのではないかと考えられる。

 

 民俗学者吉野裕子は蛇の古語に「カ(カカ)」があるとして笠(カサ)は蛇がとぐろを巻いた状態を表すとしている。

 

 加佐郡においては青葉山、冠島もまた三角錐の形を為しており、特別な信仰の対象であったと考えれる。

 

 青葉山や冠島への崇敬は古代から続くものであるが、その深層にはこうした蛇信仰が存在した可能性が極めて高いのではないだろうか。最初に青葉山には大蛇の伝承が残されていることを述べたが、青葉山もその見事な三角錐のなかにとぐろをまく蛇の姿を見たのか、山容が形作る見事な三角錐を蛇の頭部そのものとみなしたのか‥いずれにせよ古代の人は青葉山に蛇を感得したことは間違いない。

 

 冠島は20万羽ともいわれるオオミズナギドリの繁殖地であり、この海鳥の卵が多いことから大型のアオダイショウが生息するとされ、蛇は冠島に住む竜神の使いと信じられている。

 

 

 

 

 ここで大きな疑問がわく。

 

 蛇が神そのものであるならばなぜ蛇(大蛇)が殺されるという伝承が多いのか?という疑問である。

 

 

 

大蛇はなぜ殺される

 

 

蛇(龍)を退治する神話や伝承が世界中に見られるが、日本にも大蛇を殺すという伝承が全国に存在する。

 

はっきりとした蛇への畏怖や信仰があり、蛇が神と崇められたことは確実であるにも関わらず、一方で蛇が殺される伝承が多いことは大きな疑問である。

 

 ひとつの仮説として考えられることは蛇を信仰した集団がなんらかの理由で排斥、抑圧されるという歴史的な事実が反映されているのではないかいうことである。

 

 特定の集団や血縁に結び付けられた動物をトーテムと呼ぶが蛇をトーテムとしていた集団があったことは縄文土器には蛇を多用したものが多く見られることからも明らかである。つまり蛇をトーテムとする集団が駆逐、排除されたこととかかわるのかもしれないと考えている。

 

谷川健一は縄文中期に蛇に対する信仰が築かれたとするが、その信仰がどのような盛衰をたどったのかその詳細については残念ながら不明というほかない。

 

 

 

蛇―不死と再生の民俗

蛇―不死と再生の民俗

  • 作者:谷川 健一
  • 発売日: 2012/01/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 大蛇と殺される女神

 

 もうひとつの観点から大蛇が殺されることについて考えてみたい。

 

 大蛇が殺されることを『退治』と呼んでしまって良いかとという疑問である。

 

 敗死したり恨みをもって亡くなった霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として 平穏や繁栄を与えるとされた。霊威を和らげ、むしろその異力を取り入れようという発想である。

 

 仏教の天部の神々の多くは仏教に教化されることで仏法を守護したり、仏教徒に福寿をもたらすという考えによるものであり、この御霊信仰との類似は明らかではないだろうか。

 

 蛇が神であるという意識が失われると同時に、蛇神への畏敬が失われ蛇はただ恐ろしいだけの存在になっていかざるえを得なかったのかもしれない。

 

 『退治』というのは多分に現代的な考えであると思う。

 ここでもうひとつの可能性を考えてみたい。それは『殺される神』という視点である。

 

 神が殺されるということが単なる殺戮ではなく神が殺され、その身体が分断されることでそこから様々な新しい生命が誕生するという考えが存在したという事実である。

 

古事記」では大気都比売神(おおげつひめ)にまつわるつぎのような物語がある。

 

 高天原を追放された須佐之男命(すさのおのみこと)は、空腹を覚えて大気都比売神(おおげつひめ)に食物を求める。大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えた。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は大気都比売神が汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を斬り殺してしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。

 

日本書紀」には保食神(うけもちのかみ)について同様の逸話が知られる。

 

 月読尊(つきよみのみこと)が保食神(うけもちのかみ)を訪れた際に、保食神は口から様々な食品を吐出して饗応しようとした。

 その態度に怒った月読尊は剣で保食神を斬り殺す。ところが惨殺された保食神の体の各所から様々な家畜や穀物、蚕などが生育し、それが農業や養蚕業の起源となる。

 

 保食神豊受大神(とようけおおかみ)の母にあたることも重要である。豊受大神は丹後に巨大な信仰圏を持ち、伊勢神宮天照大神と主に祀られている。

 

 体から食物を排泄する神、殺された神が農業の起源となることは非常に奇異な印象を受けるが、こうした神話はハイヌウェレ型神話として知られている。

 

 

 ハイヌウェレはインドネシアのセラム島に伝わる少女の名前である。

 

 ココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。あるとき、踊りを舞いながらその宝物を村人に配ったところ、村人たちは気味悪がって彼女を生き埋めにして殺してしまった。ハイヌウェレの父親は、掘り出した死体を切り刻んであちこちに埋めた。すると、彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となった。

 

 この形の神話は、東南アジア、オセアニア南北アメリカ大陸に広く分布していて特にタロ芋など芋類を栽培して主食としていた民族である。

 

 切り刻まれた死体から生命が生まれるということは現代人にとっては大変に異常なことのように思える。

 

 ジャガイモを栽培する際に種芋を切り分けて土に埋めると発芽して生育する。

 栄養繁殖と呼ばれる植物の増やし方であるが自然現象への観察からこうした生命感が生まれてきた可能性があるのではないかと感じられる。

 

 縄文時代の土器のは多くが乳房、妊娠など女性的特徴を持ち女性的、母親的な地母的性格をもたされていた。

それらを丁寧に作り上げた土偶をいくつもの破砕し、一部を家の中で丁寧に祀る一方で、他の大部分をいろいろな場所に分けて埋めることが行われることが知られている。このことは一見大変に不思議な行為であるが壊された土偶はまさに壊されて各所に埋められることで豊穣をもたらすと考えられたという説が提唱されている。

 

 縄文時代にハイヌウェレ型神話に基づいた感性をもった人々が存在していたというのである。

 

 

日本神話の源流 (講談社学術文庫)

日本神話の源流 (講談社学術文庫)

  • 作者:吉田 敦彦
  • 発売日: 2007/05/10
  • メディア: 文庫
 

 

 

ニューギニアのマリンド・アニム族の行うマヨという儀式がある。この儀式は吉田敦彦の「日本神話の源流」のなかに記載されているものである。

 

植物の繊維で作った模型の蛇が地面に埋めておかれ、人々がその蛇を掘り起こして切り刻み、その中に詰められていたサトウキビを食べるという儀式である。

模型の蛇は地母神的存在であり、分断された体から産み出されたものを祭りの参加者が享受するという。

 

 このマヨという儀式が蛇の模型を使っていることは大変に興味深いように感じる。

 蛇を退治するという物語が日本中に語られている。

 これは蛇を分断することで豊穣を祈願することが行われていたのではないかという推理が成り立つのではないだろうか。

 広く行われた祭儀として蛇や龍の模型を分断すること、実際にその形象のなかに食物が詰められていたかもしれない。

 それによって豊穣がもたらされるという願いが込められていたのではないか。

 そして分断による再生(豊穣)という本来の意味が失われて、悪しき存在を退治という物語に収斂してしまったのではないだろうか。

 

 与保呂の大蛇にまつわる伝承は様々なバリエーションがあるが、私の印象ではこの伝承には後世に様々な物語の要素が付加されて成立したものであって、本来の話の核となるのは大蛇が切断されて殺されたという部分ではないかと思う。

 

 ヤマタノオロチが退治され尾の中から剣が取り出される。その剣が三種の神器のひとつとなる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。

 蛇の体内から宝器が見いだされることももしかしたらこのことと関係しているのかもしれない。分断された与保呂の大蛇の尾が祀られている大森神社の祭神は天御影命(あめのみかげのみこと)であり、天御影命(あめのみかげのみこと)は鍛冶神であり1つ目であるとされる。

 

 

退治されし者

 

 退治される大蛇、退治される鬼という2つを並べて考えるとそこに何か共通するものを感じる。

 

 もしかしたらある同じ現象を片方は大蛇退治と表し片方は鬼退治と表したことがあったのではないだろうか?

 

 日本の文献に「鬼」が初めての記録されたのは「出雲国風土記」であり、それは大原郡阿用郷(現在の島根県大原郡大東町)であったという。そしてその鬼は眼がひとつであったという。その地は現在も阿用川という古代の香りを残す地名である。がその阿用川はヤマタノオロチ退治の舞台となった斐伊川(ひいかわ)と僅かしか離れていない。

 

 そのように考えると青葉山の土蜘蛛討伐と青葉山に居た大蛇退治はどこかで共鳴しあっていてもおかしくない‥という連想が思い浮かぶ。

 

 古代にいて蛇は神として特に雷神として畏怖されたと述べたが、今日、私達が雷様(雷神)として思い描くのは鬼の姿ではないだろうか?そのことも蛇と鬼の共通性という問題を考える手がかりになるのではないだろうか。

 

 酒吞童子の物語を大江山ではなく伊吹山とする説があるが、大和武尊(やまとたけるのみこと)は伊吹山で大蛇によって殺される。ヤマタノオロチを退治した大和武尊がなぜ大蛇に殺されるのかというのは興味ある問題だが、伊吹山の神である蛇神がそれだけの霊威ある存在であったことを示唆しているようにも思う。

 

 伊吹山に鬼(酒吞童子)が住んでいたとされことと伊吹山に恐ろしい蛇神が居たということはどこかでつながってくるのかもしれない。

 

 山そのものが蛇とみたてられたこと、鬼にまつわる伝承の多くが山を舞台としていることなども何か非常に深い関係を示唆しているように思う。

 

 鬼の装束は虎の皮の褌と描かれることが多いが、鬼の装束が蓑や笠とされたことについては既に述べた。

 

 笠も蓑も着脱できることが蛇の脱皮になぞらえることが行われたらしい。

 笠も蓑も単なる雨具ではなく神聖なる意味をもたされる場合があったのである。

 神(蛇)とは脱皮するものであり、それが神の神聖性、不死性とつながっていたのであろう。

 そして蓑笠の最も神聖なる素材は檳榔(びろう)であった。檳榔(びろう)は蛇に似た形をした神聖なる樹木であり、その葉は特に珍重された。

 

 

 

常陸国風土記をゆく

常陸国風土記をゆく

 

 

 

 鬼と蛇をつなぐものとして「常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)の夜刀神(やとがみ)の逸話が思い浮かぶ。「常陸国風土記」は古代の東国について記した最古の文献とされる。

 

 継体天皇(第26代天皇)の時代に麻多智(またち)という人物が新たに田を開墾して献上したが夜刀(やと)の神が群れを引き連れて妨害し田を作らせなかった。土地の言葉で蛇を夜刀(やと)といいその形は蛇の体で頭に角があったという。麻多智(またち)は武装しこれらの夜刀(やと)を打ち殺し追い払った。

 そして山の登り口に境界の目印をたてて境界から上は神の土地とし、下は人の土地として田を作ることとし、自らが神主として夜刀を敬い祀るので恨まないでほしいと伝える。

 

 この逸話は山の神であり蛇の神であった夜刀と人間と争いの物語であり夜刀の神は蛇神にして額に角があったことも鬼と蛇の繋がりを感じさせる。

 

 なお、「常陸国風土記」のなかではふれられていないが 夜刀は「谷人」(やと)であり山間の水源で製鉄に従事していた人々であり一方、田の開墾とは稲作の田んぼではなく製鉄のために砂鉄を沈殿させて選別する水簸(すいひ)の圃場を作るためであったともいわれる。

 水簸(すいひ)とは比重により水中での沈降速度が異なることを利用して、底に沈んだ重い粒子を取り出す選鉱方法である。つまり夜刀の物語は製鉄に従事する人々の抗争であるという解釈がなりたつ。

(農業は鉱業と無関係のように思われるが、実際は砂鉄の採集には大量の水を管理する技術が伴うことから稲作の発展と鉱業との間には非常に深い関係があったように思われる。)

 

 土着の集団が新たにやってきた集団によって駆逐されていく様子は退治される鬼の姿にも重なるものがある。  

そして勝者にも少なからず敗者に対する畏敬が記されていることが救いのようにも思える。