舞鶴と3つの鬼退治伝承 鬼とは何か? 『舞鶴歴史物語』その1

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

舞鶴と3つの鬼退治伝承

 

 

 

福知山大江町にある『鬼の交流博物館』を訪れたときに「3つの大江山」という展示に眼が止まった。

 

大江山の鬼退治には3つの鬼退治伝承と結びついているという。

 

○ 青葉山の土蜘蛛「陸耳御笠」(くがみみのみかさ)が悪行を働いたために日子座王(ひこいますのみこ)が討伐した

 

○ 聖徳太子の異母弟である麻呂子親王(まろこしんのう)が薬師如来の力を得て鬼族退治行った逸話

 

○ 源頼光による酒吞童子退治

 

 

 舞鶴の旧名を加佐郡と称したが、加佐郡は現在の舞鶴市に加えて、大江町(福知山)や宮津市の一部を含む地域である。従って舞鶴市の前身である丹後国加佐郡の地域にはこれら3つの鬼退治の伝承が伝えられていたことになる。

 

 丹波、丹後という地名は混同されやすい。

 

もともと古代には『丹波』(たには)という地域があった。

 『丹波』は京都府の北部と中部、兵庫県大阪府の一部にまたがる広大な領域であった。

 その広大な『丹波』が7世紀から8世紀にかけて但馬国丹波国丹後国の3つの地域へと分かれた。

 私の住んでいる金剛院の境内は福井県との県境に接しているが、福井県南部との文化的 な交流が盛んであり丹後の国の影響力は福井県の嶺南、広くは若狭湾一帯に及んでいたのではないかと考えている。

 

古事記」「日本書紀」には崇神天皇(第10代天皇)の時代、各地に四道将軍を派遣し大和の王権が伸長してゆく様子が描かれる。

 

古事記」では

 

高志の道 東の方十二道 丹波の國

 

の各地に3人の将軍を遣わしたと記され

 

日本書紀」には

 

北陸 東海 西道 丹波

 

に4人の将軍を派遣したとされる。「古事記」「日本書紀」のいずれにも丹波の国が共通して取り上げられていることはこの地域が古くから強大な権力を持ち、大和王権にとって無視し得ない存在であったことを示しているのだろう。

 

 

大和王権もまた当初は各地に分立した権力のひとつでしかなかった。

大和王権は競合する勢力と常に戦争を行っていたわけではなく、婚姻関係を結んで融和的に勢力を拡大することが頻繁に行われたと考えられる。

 

 

 

青葉山の陸耳御笠(くがみみのみかさ)

 

 

 

 最古の歴史書である「古事記」には崇神天皇(第10代天皇)の代に陸耳御笠(くがみみのみかさ)という凶賊を討日子座王(ひこいますのみこ)が討伐するという記述がある。 

 

 次代、垂仁天皇(第11代天皇)の治世には丹後から4人の媛(ひめ)が迎えられた

 その系譜から景行天皇(第12代天皇成務天皇(第13第天皇)らが続くことから、この時期、丹波大和王権の結びつきは大変に深かったと考えられる。

 前代の崇神天皇の時代には丹後の陸耳御笠(くがみみのみかさ)との軍事的な抗争があったとされるが、垂仁天皇の時代には一転して多くの媛(ひめ)が迎えられたことは興味深い。そして奈良にあった大和王権が奈良以外の地方勢力と婚姻関係を結んだ最初が丹後の媛であったことはいに注目されるべきだろう。

 

 崇神天皇は最も実在が確実な最初の天皇であるという意見が根強い。その仮説に従えば天皇家の系譜のごく初期において大和王権と丹後との関わりが大変深かったことになる。

 

 「陸耳御笠」討伐は最も古い記録に属するだけでなく、征討された人物について「陸耳御笠」(くがみみのみかさ)という固有の名称がはっきりと記されている点でも特異である。

古事記」「日本書紀」「風土記」などに熊襲蝦夷、土蜘蛛など異族としての名称はあっても征討された人物の名前が伝わっていることは少ないからである、

 

 征討された異族の多くに侮蔑的な呼称が与えられているのに対して、「御笠」というのは敬称である可能性がある点でも特異であると感じる。最も早い例のひとつであり、敬称を伴った具体的な名前が伝わっていることは特異なことのように思える。

 

 舞鶴の旧称は加佐郡であるが、恐らくは「加佐」(かさ)という地名と「御笠」(みかさ)は繋がりがあるに違いない。

 

「陸耳」(くがみみ)という呼称については『耳』に首長の意味があることが指摘されている。

 

古事記」「日本書紀」などに異民族や凶賊を討伐した逸話が少なくないが彼らが果たして本当に悪者だったのだろうかという疑問を残しておいて良いのではないだろうか。

 

 仁徳天皇(第16代天皇)の時代に飛騨に両面宿儺(がりょうめんすくな)という異人があって武振熊命(たけふるくまのみこと)に討ち取られたという記述が「日本書紀」にみられる。

 両面宿儺は体の前後に2つの顔を持ち、4本の腕があったという。怪異な姿をして人民を苦しめた凶賊として討伐される。

 一方で飛騨には両面宿儺を開祖として祀る寺院が多数あり「開山様」「両面様」と慕われている。多くの寺院を開き、悪竜を退治した英雄としての伝承も伝えられる。

 

 「宿儺」(すくな)とは「宿禰」(すくね)のような敬称ではないかともいわれ、御笠という呼称にも通じるものがある。

 

 

 

麻呂子親王と鬼族

 

 聖徳太子の異母弟とされる麻呂子親王の伝承は丹波、丹後の各地に残されており、70余りの事績が数えられるという。私の父の生まれた大浦半島の多禰寺(西国四十九薬師霊場)も麻呂子親王の開基と伝わる。

 

 なかでも麻呂子親王が英胡、軽足、土熊らの鬼族を薬師如来などの法力を助けとして討伐した七仏薬師の伝承が丹波、丹後に数多く残されている。

 七仏薬師(しちぶつやくし)とは、『薬師瑠璃光七仏本願功徳経(七仏薬師経)』や『薬師如来本願経』で説かれている、薬師如来を主体とした七尊の仏のことである。

 西にある阿弥陀如来の極楽浄土に対して、東には七仏薬師の仏国(浄土)が7つ並んであり、一番遠い7番目に薬師如来浄瑠璃浄土がある。

 

多禰寺は七仏薬師の本願地ともされるが、多禰寺以外の寺はいずれも丹後半島よりに位置している。浄瑠璃世界が最も東方にあることと関係があるのかもしれない。

 

 

 奈良県葛城市にある當麻寺は麻呂子親王創建とされる古刹である。当麻寺を氏寺とする当麻氏は麻呂子親王を始祖としている。当麻寺と丹後の接点として天橋立で行われていた迎講の存在があげられる。迎講とは来迎する諸菩薩に仮装して練り歩く仏事である。

 

 松尾寺の仏舞(ほとけまい)は、松尾寺に伝わる宗教的儀式である。国の重要無形民俗文化財に指定され、毎年5月8日に松尾寺の本堂にて奉納される

 

 仏舞は大日如来、釈迦如来阿弥陀如来の三像の面を着け、越天楽の譜に合わせて優雅に舞うもので、奈良時代に唐から伝えられたものと言われる。仏舞の由来や始まりは松尾寺の古い記録が焼失してしまったため不明だが、約600年前の江戸時代初期には既に舞われていた記録は残っている。 仏前神前で舞踊が奉納されることが多いが、仏自身が来迎し、舞うというのは珍しい。

 

丹波、丹後に麻呂子親王の伝承が数多く伝えられていることと、松尾寺に希少な仏舞が伝承されていることには何か繋がりがあるのかもしれない。

 

大江山酒天童子

 

 3つの鬼退治の伝承のなかで最も有名なものが大江山の鬼退治であることはいうまでもない。

 

 酒天童子という異形の鬼が数多の手下の鬼を従えて大江山の山中に棲み、都に出没しては婦女をさらうなどの悪行を重ねる。源頼光とその四天王らが討伐に向かい、酒吞童子を知略と武勇で討ち果たす。この物語は江戸時代には広く知られた物語であった。

 

 物語の舞台となる“大江山”は京都府に2つある。

 ひとつは山城と丹波の堺にある大江山(太枝山・老ノ坂)でありもうひとつが丹波大江山である。車で京都に向かうと必ず通過する老ノ坂トンネル近辺が大江山であったかもしれない。

 

 丹波には大江山という単独の山が存在するのではない。大江山とはいくつもの峰から成る連山である。

 鍋塚(なべづか、763.0メートル)、鳩ヶ峰(はとがみね、746メートル)、千丈ヶ嶽(せんじょうがたけ832.5メート)、赤石ヶ岳(あかいしがたけ、736.2メートル)などの峰々から成る。

 

大江山に登ると、独特の荒涼たる空気を感じる。

それはあなたの気のせい‥と笑われそうだが、そもそも鬼や妖怪といった怪異なるものを生み出すひとつのきっかけはその空間のもっている特有の力や気配のようなものではないだろうか。大江山には何か不思議な気配を感じるのである。現代人よりはるかに鋭敏な感性をもっていた古代の人達がそこに何かを感じても不思議は無いように感じる。

そして、

 

冠島 青葉山 大江山

 

この3つに並々ならない不思議な力が漂っているように感じる。

それだけに各時代の様々な信仰、精神文化が複雑に堆積している。

 

 

 

 

   鬼とは何か?

 

 

 

 子供の頃見た水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」が強く印象に残っている。

 「ゲゲゲの鬼太郎」は何度もリメイクされたが、人間以外の存在への恐ろしさと憧れのようなものを子供の私に教えてくれたように思う。勉強も運動も苦手だった私にとっては試験や競争の無いお化けの世界というものがどこか羨ましく思えたのかもしれない。

 

 昭和から平成、令和と年代を重ねたが相変わらず妖怪は人気者である。

 本稿を書き始めた頃は丁度「妖怪ウオッチ」が人気だった。流石に、当分は妖怪ブームもないかと思っていたがいつの間にか「鬼滅の刃」が一大ブームとなり大人も子供も夢中である。妖怪の人気は不滅であるらしい。

 

  怪異なるものの代表である鬼の存在はどれほど科学文明が発達しても無くなることはないように思われる。

  鬼といっても人を喰らう恐ろしい鬼から人間に騙されるる愛すべき存在とそイメージは実に様々である。

  鬼とは何かというのは容易に答えが出せないが、そのいろいろな姿を取り上げてみたい。

 

 

盗賊なる鬼

 

 大江山が2つ存在することは先に述べたとおりである。

 

 京都市西京区と亀岡を結ぶ付近は交通・軍事の要衝であり、かっては山城国丹波国の境界であった。

車で京都に向かうと老の坂インターチェンジを通るが「老ノ坂」という地名も本来「大江山」に由来するという。

 大江山(老ノ坂)には大江関が置かれてあって、京都から放逐された盗賊などの犯罪人は大江関より放逐されたものであったらしい。

 旅とは困難なものであり、不安なものであった。

 旅人が盗賊などの犯罪によって人命や金品を失うことは少なくなかった。

 大江山(老ノ坂)を越える人々は自分がいよいよ危険な未知の旅路に向かうことを強く意識したはずである。

 黒澤明が世界的名声を獲得した『羅生門』の原作は芥川龍之介の「藪の中」であるが、この「藪の中」の原話となったのは「今昔物語」の巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語(妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛らるること)」。

 

 

藪の中

藪の中

 

 

 

羅生門 デジタル完全版

羅生門 デジタル完全版

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 これは丹波国を旅していた夫婦が強盗に遭う話である。当時、旅中で強盗に出会うことは決して珍しくなかったのであろう。

 女をさらい金品を強奪するという鬼の所業は強盗、追い剥ぎと重なる。

 鬼につきまとうのは盗賊のイメージである。

 

 当時の人々にとって旅の持つ不安がこうした鬼退治のなかに反映していてもおかしくない。都に住む人々にとって周辺というのは不安であり、未知の領域だったのである。

 自分の欲望のために他人を犠牲にするという人間の悲しくも恐ろしい性(さが)であった。

 富山県八尾市には滅鬼という地名がある。武士が当地の山賊を退治したことにちなむとされ、鬼が山賊の類であったことに関係するのかもしれない。

 

大江山いく野の道は遠ければ まだふみもみず天橋立

 

百人一首に収められて小式部内侍の和歌は大江山を詠んだ最も有名な歌である。

 

ここに読まれた大江山は老ノ坂としての「大江山」であると考えれられる。

 

大江山(老ノ坂)→生野(福知山の生野の里)→天橋立

 

という行程を踏まえたのがこの歌だったのであろう。

 

藤原範兼の和歌に

 

大江山こえていく野の末遠み 道ある世にもあいにける哉 (新古今)

 

大江山(老ノ坂)を越えて生野に至る道が遠いという連想は小式部内侍が歌をよむ前から広く知られていたらしい。

 

 

異民族

 

古来、日本には様々な異族が割拠していたらしい。

 

 

鬼の研究 (ちくま文庫)

鬼の研究 (ちくま文庫)

 

 

 

馬場あき子は「鬼の研究」のなかで土蜘蛛と呼ばれる人々の逸話を列挙している。その中には女性の土蜘蛛、巫女らしき土蜘蛛もある。中には当地の民衆が土蜘蛛に加担したという記述もある。

 「古事記」に記された丹後の逸話のなかでも青葉山に棲む陸耳御笠(くがみみのみかさ)という土蜘蛛を討伐した逸話は3つの鬼退治伝説のなかでも最も古いものであると考えられる。この逸話が麻呂子親王源頼光といった他の鬼退治の源泉となったことは想像に難くない。

 

 大和王権が奈良以外の地方勢力と婚姻関係を結んだ最初が丹後の媛であったことについては先に触れたが、大和王権は決して圧倒的な存在ではなく様々な地域勢力と婚姻関係による平和的な同盟関係を結ぶことが多かったと考えられる。

 

 時には軍事的な衝突、征討もおこなわれたが、大和王権に逆らい討伐された存在の代表が土蜘蛛と呼ばれる人々である。土蜘蛛という名称の連想から後世には巨大な蜘蛛に牛の首を持った妖怪が描かれるようになった。

 

 土蜘蛛について背は低いが手足が長いという記述もあるが、これは「蜘蛛」という名称からの連想ではないかと考える。そうした特徴的な骨格を持った人骨が発掘されていないことからも明らかである。

 

土蜘蛛については「風土記」のなかに記述が多く、穴居することが特徴とされる。穴居とはいかなることであるか長らく疑問であった。埼玉の吉見百穴(よしみひゃっけつ)のようにまるで団地のような横穴に住んでいたかと思っていた。

 

従来、縄文時代の竪穴式住居は茅葺きで再現されることが多い。

ところが近年の発掘調査をから竪穴式住居は土屋根であったとする説が支持され始めている。

 竪穴式住居の建造方法は地面を掘り下げて屋根の柱と屋根材を立て掛けるものであった。その屋根は従来は茅葺きと考えられていたが、掘り起こした土を屋根に積み上げた土屋根であったという説が有力視されはじめている。掘り下げた土を屋根に積み上げたと考えると合理的な工法である。

 そして土で屋根を拭いた竪穴式住居は遠目には穴居とも巣穴のように見えるのである。

 

 

 鬼は権力にさからい民を苦しめるものとして征伐されることが多いが、地方で平和に暮らしていた集団のもとに突然、軍事的な侵攻が行われたこともあったはずである。

 歴史というものが必ず勝者に都合よく書き換えられるものだからである。私達が鬼について書かれたものを見るときに、そうした疑いを持つ必要があるのではないだろうか

 

 

 

 

 

金属と鬼

 

鬼の存在を解明するにあたって金属がひとつのキーワードであるように思う。

鬼の伝承に岩石、金属にまつわるものが大変に多い。

鬼とされた人々の多くが採鉱、精錬、冶金などに関わっているという特徴が多くの研究者によって指摘されている。

 

鬼(オニ)とは隠(オン)であると説明されることがある。

そして目に見えないとは、実体が無いという意味ではなく洞窟や坑道などの地下に潜ることを意味するともいわれる。

 

 

日本には5000以上の前方後円墳が存在していたとされる。

そうした巨大な墳墓などの歴史的遺物は大勢の人々の労力によって建造されたものだが、そうした圧倒的なスケールの建造物はそれを作った<大きく強き人>を想像させた。このことが鬼の生み出すひとつのきっかけになったのかもしれない。

 

奈良県高市郡明日香村にある鬼の俎(おにのまないた)、鬼の雪隠(おにのせっちん)はいずれも古墳の石棺の一部であったという。それらから巨人、剛力を想像したことは容易に想像できる。

 

英国のストーンヘンジに代表されるストーンサークルやヨーロッパ各地のメンヒル、ドルメンといった巨石石造物からそれらを巨人が作ったとする見方が生まれたことと一致している。

 

 

 

 

 

加佐郡の3つの鬼退治伝説の舞台は青葉山、多袮山、大江山であり、いずれも山間である。

 

青葉山縄文時代から崇敬を集めた霊山である。

青葉山に登ると至るところに溶岩の岩塊を観ることができる。

山そのものが神の宿る存在であった。青葉山については項を改めて述べたい。

 

 

筆者の調べた範囲で多禰寺という寺名は他に無いものであるが、福井県坂井市丸岡町に多禰神社(種神社)という古社が存在する。倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀る由緒正しき古社である。「多禰」という名称は極めて稀な呼称であることは間違いない。

 

鹿児島県の種子島は古代では屋久島と共に「多禰国」と表記された。

近世に種子島が鉄砲の異名であることはよく知られている。

 

1543年にポルトガル人が種子島に“漂着”して日本に初めて鉄砲を伝えとされ、1543年は「鉄砲伝来の年」として教科書に記されている。

 

種子島には鉄砲伝来後まもなく鉄砲の製造に着手している。

このことは種子島に非常に高度な製鉄技術が在ったことを示している。

 

最先端技術であり、最新兵器であった鉄砲を携えたポルトガル人が偶然に当時最高水準の技術力を誇っていた種子島に漂着したというのは出来すぎた話である。

 

 

また種子島に横峯遺跡は3万5千年の鹿児島県最古の遺跡群が存在する。

多禰(種)とは製鉄に関する言葉ではないかとも考えているがまだ確証が得られていない。

 

種子島では砂鉄鉄製品の生産も行われていたことから

多禰(種)という言葉に砂鉄という意味があるとされる。

 

吉備国は製鉄が盛んであったことが知られている。

また吉備津の釜で知られる温羅(うら)という鬼退治の伝承が有名である。

 

岡山の地名を研究している浦上宏氏は「タネ」という言葉は砂鉄を指すとして

 「種石」(鏡野町竹田)

 「種坪」(備前市吉永町福満)

 「種尾」(井原市美星町三山)

 「種井」(総社市種井)

などの地名を挙げておられる。

 

他にも兵庫県南西部の千種川(ちくさかわ)が国内有数の砂鉄産地であったこと、九州の製鉄先進地域であった種子尾(たねお)などタネ(種、種子、多禰)と製鉄の結びつきは非常に深いと考えられる。

 

 但し残念ながら多禰寺の近傍で製鉄に関する事例は見聞したことがない。

 

 一方で多禰寺についてはこの地域に辰砂(硫化水銀)の産地であったことが確認されている。辰砂を精製した水銀は金メッキに不可欠な原料であり古代、中世には重要な金属資源であった。

 多禰寺の後背地は大丹生という地名であり、麓に赤野という地名がある。舞鶴から若狭にかけて「丹生」もしくはそれと同音、類音の地名が多数点在している。こうした地名は辰砂の採掘された地域に多いとされている。

 

 大江山の鬼退治とほぼ同じ内容の鬼説話が残る伊吹山付近にも丹生にまつわる地名が多いこと、退治された飛騨の両面宿儺の根拠地が大丹生岳から発する丹生川(現在の小八賀川)であるなど辰砂と鬼には深い関係があるようである。

 

 多禰は訓読みでは「おおに」であり後背地の大丹生(おおにゅう)に類音であることに注目している。

 浅草(あさくさ)にある寺院が浅草寺(せんそうじ)であるように同じ言葉が音読み、訓読みで異なる。当地に近いところでは福井 飯盛寺(はんせいじ) その後背にあるのが飯盛山(いいもりやま)である。

製鉄、辰砂(硫化水銀)いずれも鬼といかなる関係があったのかは今後の課題である。

 

 

 

 

 

仏教と鬼

 

 仏教と鬼の間には深い関係がある。鬼が生まれた源のひとつには仏教にあるのではないかとすら考えている。

 

 お盆に行われる施餓鬼法要は「餓鬼に施す」という意味である。

では餓鬼とは一体何化と言われればこの場合の「鬼」は角の生えた鬼ではなく亡者(魂)のことである。

死後に祀ってもらえない、即ち食べ物を供養してもらえない哀れな亡者に食べ物を与えて供養してやろうというのが施餓鬼である。そしてこうした可哀相な亡者に施すという大きな功徳を各家の先祖の振向けて先祖にまた大いなる善果をもたらすというのが施餓鬼法要である。

 人が亡くなることを『鬼籍に入る』という。

鬼という文字が亡者の意味であることが分かれば「鬼籍」というものが死者の名簿であることはいうまでもないだろう。

 

 仏像には4つの種類がある。

 如来、菩薩、明王、天部という区別が有り、天部が最も位が低いとされる。

 天部の仏像は実は最もバリエーションに富み、魅力的であるともいえるのだが、その多くは仏教以前から信仰されたインド土着の神々であることが多い。

 こうした神々は仏教に取り入れられることで仏教徒を守護したり、福徳を与えるという役割が与えられた。

 

 本尊の周り囲む四天王や山門の仁王(金剛力士)が天部の代表である。

 

 山門に祀られた仁王像は巨大な体格、恐ろしげな表情を浮かべ、手には金剛杵という武器を持つものが多い。恐らく最も多かったのは全身を赤色に塗られていたことである。こうした仁王像は赤鬼のイメージにつながっていったのではないだろうか。

 鬼といえば牛の角を生やし、虎皮の褌と相場が決まっていて、その説明として鬼の出來る東北の方角が艮(うしとら)であるから牛の角、虎のふんどしともいわれるのだが、天部の仏像はは豹皮のマントや虎と思しき獣皮を腰にまとうもの、獅噛(しがみ)といってライオンをモチーフにした飾りをまとうものが少なくない。こういった仏像の装束も鬼の外見を発想させるうえで影響を与えたのではないだろうか。

 

 風神雷神やなどの天部の諸像は我々の知る鬼の形に近いものがある。近藤善博「日本の鬼 日本文化探求の視角」は鬼に関する貴重な論文集だが蓮華王院(三十三間堂)の雷神象の写真がカバーを飾っている。

 

 

日本の鬼  日本文化探求の視角 (講談社学術文庫)

日本の鬼 日本文化探求の視角 (講談社学術文庫)

  • 作者:近藤 喜博
  • 発売日: 2010/08/10
  • メディア: 文庫
 

 

 

 三十三間堂風神雷神は国宝に指定され日本最古の風神雷神象だが、堂内を見下ろし、口を開いた恐ろしい形相である。写真で観ると顔半分が暗く、見ようによっては1つ目に見えなくもない。総髪は上にたなびき、太い毛の束がそそり立っている様子は無数の角のようにも見える。

 僅かな灯明の明かりのなかで観る明王や天部の仏像は光線によって様々に見えたに違いない。仏堂という特殊な空間のなかで見る者の意識もまた平時とはことなった狂おしい気持ちになったかもしれない。

 

 仏像の多くは宝冠をかぶっていたり、頂髻相(ちょうけいそう)といって頭髪が二層になっている。

 仏像は多くの場合、頭部に特徴を持っていた。このことも鬼の外見、特に角を生み出すのに影響を与えていたかもしれない。

 

 もうひとつ仏教との関わりで見逃せないのは地獄という死後の世界で亡者を責め苛む獄卒が絵画などにビジュアル化して盛んに描かれたことである。

 

 牛頭馬頭という牛と馬の頭を持った獄卒が多く描かれたが、このうち牛の角が鬼の角へと変化した可能性も無視できないからである。

 特に平安時代以降の極楽往生思想は遍く流行し、極楽への憧憬を生む反面、地獄への畏怖は非常に大きなものがあったのではないかと考えられる。

 

 不動明王や天部の怒りの表情は憤怒形とされる。この怒りの表情のは人間的な怒りではなく、あくまでの仏の慈悲や智慧を離れることのない怒りである。

 私達は感情や利害で怒ることが多いが仏像の怒りは正しい道に導くための怒りであることを忘れてはならないだろう。

 

 

 

蝦夷俘囚

 

 鬼のイメージの源泉は数多考えられるが、そのひとつは武士ではないかと考える。

 武士は庶民に隔絶した圧倒的な戦闘力を持ち一般の庶民に対して君臨し、時に略奪をほしいままにした。

 8世紀末から9世紀初頭、蝦夷地の征服が進むにつれて大量の蝦夷が朝廷に帰属するようになった。全国に分散されて強制的に移住させる政策を行った。

 

 強制移住である反面、蝦夷には食料をはじめ様々な優遇が与えられていた。

 蝦夷は狩猟の特権を与えられ馬の飼育、乗馬、騎射などを行った。練達の武人として蝦夷1人が平民10人に匹敵するとされた。そのため蝦夷は各地での盗賊の平定にも利用された。一種の傭兵として使役されることが少なくなかった。

 近年の研究により蝦夷の存在が武士の成立に決定的な役割を果たしたという見方が生まれている。

 武士の戦闘法として乗馬した状態から刀を振るって戦うスタイルが確立するに際して蝦夷の武器であった蕨手刀(わらびてとう)や騎馬戦法が進化したという指摘もある。この蕨手刀が日本刀の原型となったことは注目に値する。

 

 全国に移送された蝦夷は当時の一般の庶民からすれば異人に映ったと思われる。そして時に発揮される尋常ならざる戦闘力や破壊の姿を見て強烈に印象付けられたのではないかと思われる。このことが鬼のイメージの形成に及ぼした影響は少なくないのではないだろうか。

 

 蝦夷の居住地には『別所』という地名が多く、柴田弘武は全国に500近い「別所」の地名を調査している。

 蝦夷は高度な製鉄文化を持っていたとされるが、別所という地名の近くに鉄、銅の鉱山が見られる。薬師如来が祀られることが多いとされる。

 舞鶴にもいくつか別所という地名があり、ひとつは伊佐津川支流・池内川流域の山間である。かつては銀・銅・硫化鉄を産出していた。近傍に舞鶴鉱山があり銅を産出していた。近世、田辺藩はこの銅を精錬して大砲を鋳造した。

 

 

 

1つ目の鬼と巨人伝承 

 

  

 ギリシャ神話にはキュプロクス(サイクロプス)という単眼の巨人が登場する。

 このキュプロクスという巨人についての興味深い説が唱えられている。

 それは発掘されたナウマンゾウなどの巨大な哺乳類の頭蓋骨から連想されたものであるという。機会があれば象類の頭蓋骨の写真をネットで検索していただきたい。

 象類の頭蓋骨の中央には鼻腔の部分が大きく空洞になっていて。眼窩は左右にごく小さく目立たない位置にある。 古代の人々がこうした頭蓋骨を発見したら1つ目の巨人を連想したかもしれない‥と思わせる形状である。

 

 日本にもダイダラボッチという巨人の伝説が広く分布しているが、日本もナウマンゾウな大型の象類が生息していたことは知られている。

 古代人がこうした大型哺乳類の化石を発見した場合、巨大な骨格から巨人を連想したのかもしれない。ダイダラボッチの伝説は鉱山と関係があるという指摘もあるが、鉱石を求めて採掘中にこうした化石が発見されたのかもしれない。

 中国では象、犀、鹿、馬など大型の哺乳類の化石を竜骨という名称で漢方薬の素材として利用されている。その中には恐竜の化石も含まれているという。

 古代中国の甲骨文字が発見されたのも竜骨として買い求めた亀の甲羅に文字が刻まれていたことがきっかけであったという。北京の周口店から発見された北京原人が著名である。周口店は元来、竜骨の採掘が盛んな地域であった。おそらく竜骨として化石を採掘している際に発見されたのが北京原人の化石だったのだろう。

 

 

出雲国風土記 (講談社学術文庫)

出雲国風土記 (講談社学術文庫)

  • 作者:荻原 千鶴
  • 発売日: 1999/06/10
  • メディア: 文庫
 

 

 

 日本の文献に「鬼」として初めての記録されたのは「出雲国風土記」であり、鬼の出現が記録されたのは現在の島根県大原郡大東町であったという。そしてその鬼は眼がひとつであったという。日本で最初に記録に現れる鬼が1つ目であるというのは大変に興味深い。

 1つ目の鬼という存在はとても古いだけではなく鬼とはなにかを考える場合とても重要であるといえる。

 

 

 鬼と金工史の関係を調査した谷川健一や若尾五雄らは1つ目が金属精錬により生じたとする。

 

 精錬において科学的な計測手段の無い時代は肉眼で炎を観察してその色の変化を判断の材料としていた。

 片目で炎を凝視することで眼を痛めることが多く、金属加工に携わっている者には片目の視力のない、“1つ目”が多かったという。金属加工に携わる地域では薬師如来が祀られることが多いという。薬師如来は医薬の加護を与えるが、特に眼の病気に効験があるとされた。そのことはつながりがあるにちがいない。

 

 

 

青銅の神の足跡 (集英社文庫)

青銅の神の足跡 (集英社文庫)

  • 作者:谷川 健一
  • 発売日: 1989/09/01
  • メディア: 文庫
 

 

 

疫病としての鬼

 

 

 枕草子四十三段に一節に蓑虫を鬼の子であるとする一節がある。

 

 蓑虫の小さな幼虫がなぜ鬼の子供とされるのか‥それは鬼が蓑をまとっていると考えられていたからであるという。蓑を着ている蓑虫は鬼の子であるとされたのである。

 現在では鬼の装束といえば虎の皮のふんどしと相場が決まっているが、平安時代には鬼が蓑をまとい笠をかぶると考えられたものであったらしい。それはまた神の装束であったらしい。秋田のなまはげなどはそれに近いかもしれない。

 

  笠をかぶり蓑を着るというのは自分の姿を隠すという行為を暗示しているように思う。

  それは神(鬼)が眼に視えないとされたこととどこかでつながるだろう。

  鬼(オニ)が隠(オン)であったとされ。鬼とは不可視の存在であるとされたことが多かったようである。

 

  疫病、特に天然痘は長く人類を悩ませた存在であった。

  医学の未発達の時代にあってそうした病を予防することも治療することも困難であった。

  また都市に人口が集中し、人や物の流通が活発になると人口密度の高さゆえに多くの犠牲をもたらした。

  外国との交流が異国から伝染病を運んできたこともあったに違いない。

 

 それは視えざる何かを想像させた。

 特に天然痘は感染力が強く死亡率が高いことから恐れられた。

 天然痘の赤い発疹が現れることに対して非常な恐怖があった。

 

 天然痘は体に疱瘡(かさ)が生じる。

 ところが鬼のまとう蓑と笠は「みのかさ」であり、

 

 蓑笠(みのかさ)→身のかさ(疱瘡)

 

 と簡単に習合していったのではないか。

 

 

 天然痘は赤く発色することから赤色を天然痘避けのまじないに使う一方で疱瘡神を赤色と捉えたこともあったようである。

 高橋昌明の「酒吞童子の誕生」では、酒吞という名称から赤い顔をした酒吞童子疱瘡神に見立てた絵図を紹介している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼滅の寺 ブルーライトヨコヤマ

鬼滅の刃 21 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 21 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 

鬼滅の刃」というマンガが大変に人気。

 

知り合いのご住職も子供さんと一緒にアニメを見ているらしい。

 

妹が鬼になる

 

という設定らしいのだが

 

続編で

 

嫁が鬼になる

 

とうのはどうかな?と奥さんに言ったら

 

「それ普通やで」

 

という怖いコメントが帰ってきた。

 

 

 

舞鶴は旧名を加佐郡といった。

 

加佐郡大江町(福知山)を含む範囲であった。

 

大江山といえば源頼光の鬼退治が有名だが、他にも青葉山に棲む土蜘クガミミノミカサを日座王が討った逸話、聖徳太子の異母弟麻呂子親王が鬼族を討伐した話と加佐郡には

3つの鬼退治の伝説があったことになる。

 

こうした鬼伝説について調べるといろいろと面白い。

 

 

舞鶴加佐郡)にはどんな鬼たちがいたのか‥

 

間違いないのは鬼に配偶者がいたら鬼嫁ということになる

 

舞鶴の鬼伝説の話がとりあげられているの「酒天童子の誕生」を購入してしばし鬼ワールドに浸っています。

 

 

 

 

 

自粛期間中にこういうときこそ地元のお店を応援せねば!と嫁とランチにでかけたのだが出てきたカレーがおもいっきりレトルトだった‥かなりヘコみましたね。

 

本日は久しぶりにランチへ。

 

高浜に「ブルーライトヨコヤマ」というお店があり美味しいと伺ったので初参戦。

 

ブルーライト・ヨコハマではなくブルーライトヨコヤマ

 

お間違いなく。ご主人が横山さんなのである。

 

若狭和田駅の前の通りを少し進むと駐車場を発見。

 

車を止めて少し歩くと「ブルーライトヨコヤマ」に到着。

 

嫁はパスタランチ、私はカレーランチを注文。

 

食後のコーヒーとデザートをつけて1人1500円也。

 

f:id:burogubou:20200716115014j:plain

f:id:burogubou:20200716120113j:plain

 

f:id:burogubou:20200716120121j:plain

 

三種の前菜はヘシコ入のポテトサラダ、炙り焼きの鮮魚、自家製ドレッシングのサラダなどどれも丁寧に仕事がしてあり、メインのカレーも実に美味。

 

デザートの桃と紫蘇ゼリーのタルトは嫁絶賛の一品でありました。

 

f:id:burogubou:20200716122119j:plain

 

 

開店して1年余と伺ったが時節柄いろいろと大変だと思うが頑張って頂きたいお店である。