殺された大蛇の記憶 『舞鶴歴史物語』その2

 

 

 

 

舞鶴の大蛇伝説

 

 青葉山の大杉地区は名水の里として知られる。大杉神社境内に湧く清水は「大杉の清水」として『平成の名水百選』に選ばれた。日量2000トンという豊富な湧水量を誇り、優れた水質は銘酒「大杉」の源水となっている。

 

 大杉神社には大蛇の伝説がある。

 大杉神社に大蛇が現れてこの名水を飲むと不思議なる力を発揮し三本の杉を巻きしめて一本の大きな杉に成したとの伝説が伝わる。

 さらには青葉山の麓である福井県にも退治された大蛇の伝説と蛇塚の言い伝えが残っている。

 

 舞鶴には大蛇、竜神にまつわる伝説が多数残されている。

 

 毎年8月14日に城屋にある雨引神社にて行われる「城屋の揚げ松明」は高さ16mの大松明に、地元の青年たちが火のついた小松明を投げ上げて点火する伝統民俗行事であり、京都府無形民俗文化財にも登録されている。この「城屋の揚げ松明」もまた大蛇退治の伝説と共に伝わったとされ、雨引神社は『蛇神様』として祀られている。

 

 藁製の大蛇を引き回す“エントンビキ”などの行事が現在でも市内に多数残されていることも舞鶴の大蛇伝承を考える手がかりになるだろう。

 

 祀ることは崇敬と鎮魂の意味合いがある。また鎮魂された存在がその威力を恵みとして与えてくれることもある。近世の鬼退治伝承では勧善懲悪のなかで語られることが多いが、古くは敗者にたいして特別な畏敬が与えられた。

 

 

 舞鶴で最も有名な大蛇伝説は与保呂(よほろ)に伝わるものである。

 

 おまつという娘の悲恋から大蛇が退治されるものである。退治された大蛇の体は岩に当たって断ち切られ、大蛇を断ち切ったという蛇切岩が現在も残っている。その蛇の頭は日尾神社に、胴を行永の堂田宮に、尾は大森神社に祀った。

 

 

蛇神と杉と松

 

 奈良県桜井市の三輪神社は日本の古社のなかでも最も古い神を祀る古社である。

 神社とは神が常住するというのは後世の考え方であり、恐らくは仏教の影響によるところが大きい。三輪神社の御神体三輪山であり、三輪の神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は蛇であるとされている。

 

 大神神社のご神木は杉である。三輪の神は美酒を醸すという伝承があり、酒の神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の霊威が宿る杉の枝を酒屋の看板とする風習が生まれ、軒先に酒ばやし(杉玉)を吊るすようになった。

 三輪の枕詞は味酒(うまさけ)で、「味酒(うまさけ)の三輪」は万葉集にも詠まれた。大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は酒の神とされた。杉が霊木とされたことは舞鶴の大杉の故事を思い出させる。杉と大蛇という結びつきは深いものであるらしい。

 

 日本で最も有名な大蛇といえば素戔嗚尊(すさのうのみこと)によって退治されたヤマタノオロチである。

 退治されたヤマタノオロチの頭部は埋められ、その上に杉を植えたとされ「八本杉」とよばれる霊木が残されている。八本杉は島根県南雲市にある斐伊神社(ひいじんじゃ)の境内地にある。

 このことも明らかに杉と大蛇との関係性がみてとれるのではないだろうか。

 

 杉の樹皮が蛇の体表を連想させるのかもしれない。

 また高木に成長した杉に落雷することも多かったと考えられ、雷神としての蛇との関係も考えられよう。

 

 蛇が水神として酒の醸造につながることが考えられる。三輪神社、京都最古の古社である松尾大社の神が共に酒を司ることはヤマタノオロチの退治に酒を飲ませることともつながるのかもしれない。

 

 酒樽など醸造に関わる道具の多くが杉材で作られていた。

「麹蓋(こうじぶた)」と呼ばれる麹を育てる木箱も杉材であった。

 現在の醸造はホーロー製の金属タンクで行われるが、古来の杉材の樽を使用すると杉の香気が加わるとされ、そのことも杉(蛇)と醸造の関係に意味を加えていたに違いない。

 

 賀茂神社は『山背国風土記』に記録が残る京都最古の古社であるが、賀茂神社御神体は神山(こうやま)である。

 社殿の前には神山(こうやま)を模した円錐形の立砂が作られている。そして立砂の先端に松葉が挿してある。

神の山と神の依る松とを極めてシンプルに表現しているように思う。

 

 神はまず山の上の松を依り代として降り立つとされていたのである。松の語源も神を「待つ」とも「祀る」とも言われる。杉、松、榊、竹、檳榔(びろう)などの常緑植物は神の依代として特別視された。

 

 杉、松、榊、竹は門松のように宗教的に用いられることが多いが、古代においてそれらよりも特別視されたのは檳榔(びろう)であった。

 

 ヤシ科の常緑樹である檳榔(びろう)は公卿の牛車の屋根材や大嘗祭においては天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材として用いられているなど大変に神聖な植物と考えられた。

 

 

 

 

 

神なる蛇

 

 神話を絵画にした場合、神々は麗しい男女として描かれることが多いがそのことは果たして正しいのだろうか?

 

日本の国産みを為したイザナギイザナミという男女の神々に大きな影響を与えたと考えられるのは古代中国の女媧(じょか)と伏義(ふぎ)という男女の神である。

 女媧(じょか)と伏義(ふぎ)が上半身は人間で下半身は長大な蛇の姿をし、絡み合っている図像が残されている。これと同様の図像がインドの龍神ナーガと竜女神ナーギーの姿として残されている。

 絡み合う姿というのは蛇の交接する姿であり、そのことはイザナギイザナミがが国土創生のために交接したことと関わるように思われる。古事記においてイザナギイザナミが柱を左右からめぐるという姿は実は蛇が中心線を螺旋状に絡み合う姿に一致するように思う。

 結界として張られる注連縄(しめなわ)も二体の蛇がよりあわさった姿であるとされることもある。

 

 「古事記」を日本人のルーツとして日本人の最も古い姿を読み取ろうとする試みもあるが、実は「古事記」には外来の思想や文物が随所に織り込まれている。

比較神話学の視点からは日本の古代神話には南方の神話や伝承と類似していることが指摘されている。

例えば日本国の始原である国産みそのものも同様の物語がポリネシアを中心にメラネシアミクロネシアに分布が見られるという。(筆者はインド神話の乳海撹拌を想起してしまうのだが)

 

  日本で最古級の神である三輪神社については次のような逸話が有名である。

 

 倭迹迹日百襲媛命(やまとももそひめのみこと)は三輪山の神である大物主神(おおものぬしのかみ)の妻になった。しかしこの神はいつも夜にしか姫のところへやって来ず姿を見ることができなかった。百襲姫は夫にお姿を見たいので朝までいてほしいと頼んだ。翌朝明るくなって見たものは夫の美しい蛇の姿であった。百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて三輪山に帰ってしまった。百襲姫はこれを後悔して泣き崩れた拍子に、箸が陰部を突き絶命してしまった(もしくは、箸で陰部を突き命を絶った)。百襲姫は大市に葬られた。時の人はこの墓を箸墓と呼んだという。

 

 

 倭迹迹日百襲媛命は卑弥呼であったする説もある重要な人物であるが、この逸話からも神の本体が蛇とされたことは明らかである。

「たまたま三輪山の神が蛇であった」のではなく、多くの場合に神の正体が蛇であることを読み取るべきなのだと感じる。現代の私達が想像する神のイメージは恐らく人間に近い容姿ではないだろうか。白衣に白髪の老人などはその典型であろう。しかし古代においては蛇が神として祀られ畏怖された例が大変に多い。

 

 

 蛇に対する信仰は世界中に見られる。普遍的と言って良いだろう。

 蛇に対する信仰はエジプトに始原を持ち世界中に伝播したとも言われるが、蛇という特徴的な生き物に接した人々の間で同時発生的に生じたものなのかもしれない。

 

 旧約聖書のなかで最初の人類であるアダムとイブが生まれたが、イブをそそのかすのは蛇である。そこには蛇が人間より智慧ある存在として描かれているように思う。

 

 

 蛇はなぜ人類に畏怖されたのであろうか?

 

 人類の祖先が樹上で暮らしていた頃に恐ろしいものは<落下すること><暗闇>、そして<蛇>であったという。なめらかな体で樹上に這い上がってきて襲いかかる蛇は恐怖であったに違いない。

 

或いは恐竜の時代に既に出現したという私達の遥か遠い先祖を圧倒するように君臨していた巨大な爬虫類の記憶であるのか‥私達が蛇に抱く畏怖や嫌悪感のなかには世代を超えて祖先から受け継がれた古い記憶があるのかもしれない。

 

 

 

蛇の属性としては

 

智慧あるもの

生命力(生殖力)

脱皮(再生)すること

冬眠を経て再び姿を現すこと

蛇の持つ毒の脅威

蛇は穀類を食べるネズミを脅かすこと

 

などが指摘されるが、古い伝承や神話には次のような特別な神格が与えられている。

 

水神 雷神 金属神 樹木神

 

 特に雷は「神鳴り」であり、霊力ある存在として格別に畏怖された。

 

 落雷による激甚なる破壊や火災は恐怖の的であったと思われる。

 また十分な灌漑設備を持たない時代には雨による降水が作物の生育を決定的に左右していた。

 水をもたらすのは雨雲と雷鳴である。雷は破壊だけでなく恵みをもたらす存在でもあったといえる。

 

 雷を神聖視して落雷した区域に注連縄をはる風習が残されている。雷が豊作をもたらすという伝承も広く信じられているが、近年の研究で放電により空気中の窒素が水に溶け込むことで植物の成長を早めるということが指摘されている。自然を観察することに長けた古代の人々はそのことに気がついていたに違いない。

 

 雷としての蛇神の性格は複雑に結びついている。

 

  雷→雨(水)

  雷→高木(樹木)に落雷すること

  雷→金属に落雷すること

 

 

特に

 

   神=蛇=雷

 

という関係性によって読み解くことのできる問題は大変に多いように思う。

 

 漢字の『神』を構成する<申>は雷を表すという説もあり、中国においても神は雷と結びついていた。

 

 奄美大島では雷のことを「ティングロジャ」(天の大蛇)あるいは「グロジャ」(大蛇)と呼ぶことが報告されている。

 

 

常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)では晡時臥山(くれふしやま)の伝説が著名である。

 

 茨城の郷の女性のもとに見知らぬ若者が夜になると訪れ、娘は懐妊したが産み落としたのは小さな蛇であった。小蛇がだんだんと大きくなって養いきれなくなり、母のもとを去るときに別れ際に母の兄を雷撃で撃ち殺したという。

 

 この逸話も神が蛇であり、雷神であったことと密接に関係しているように思う。

 

 民俗学的観点から蛇について考察を加えた吉野裕子によれば、蛇の古語は「カカ」「ハハ」であり、神(かみ)という言葉の語源も「カ(蛇)」と「ミ(身)」に由来するという。

 

 吉野裕子の研究は強引に蛇に結びつける傾向があり注意を要するが、神の語源そのものが蛇であるというのは記憶にとどめておく必要があると思う。

 

 

 

雷雲の神話 (1978年)

雷雲の神話 (1978年)

 

 

恐ろしき生き物の痕跡

 

 大蛇(龍)などの爬虫類型のモンスターは世界中の伝承や神話に見られる。

 それらの一部は実在した恐竜などの化石から発想されたものもあるのではないだろうか。

 

 1770年にオランダ南東部にあるマーストリヒト採石場で巨大な爬虫類の顎の骨が発見された。この骨は『マーストリヒトの大怪獣』として展示された。“大海獣”とされた骨はモサササウルスの顎の骨であった。モサササウルスは海に住む巨大な爬虫類で映画「ジュラシック・パーク」でもお馴染みである。四肢がヒレになった巨大な海獣である。「モサササウルス」とは<マーストリヒトのトカゲ>を意味する造語である。

 

 陸上の覇者であった恐竜の化石は1882年にイギリスで発見されたイグアノドンでるからモサササウルスの骨格の発見はそれに30年余り先立つことになる。

 1908年にはアメリカでカモノハシ恐竜の一種である1908年にアメリカでミイラ状の化石で発見された。かっては恐竜など古代生物の骨格が地表に露出していることすらあったとされる。こうした巨獣の骨格はアジアの龍や大蛇、西洋のドラゴンといった爬虫類型のモンスターを生み出すヒントになったのではないだろうか。

 

 

 鬼は言うに及ばず、俵藤太に退治される巨大なムカデ、そして大蛇など伝承のなかの生き物が実際に存在したとは考えにくい。ではなぜそのような巨大な怪物が想像されたかについては興味深い考察が可能である。

 

 古代人にとって地下から採掘される鉱物資源は極めて貴重なものであり、精錬された金属は富や権力の源泉になるほどの存在であった。そうした採掘のなかで発掘された化石などは古代の人々の想像を大いにかき立てたにちがいない。

 想像を逞しくするなら、細く長く地下に続く坑道は蛇やムカデが好んで地下の狭い空間を棲み家とすることを想像させたのではないだろうか。

 

 蛇が自分の体の上に体をかさねてトグロを巻く姿を古代の人々は特別視したとされる。

 形の整った山、多くは三角錐や円錐の山が御神体とされた。そうした整った山の姿に蛇の姿を感得したのである。

 

 全国に「モイワ」「モヤ」という名称の山が存在する。アイヌ語で神のいる山という意味であるとされる。

青森の雲谷峠(もやとうげ)、靄山(もややま)秋田県の茂谷山(もやさん)など形の整った特別な山を神聖視したことともつながるように思う。

 

 笠山、傘山、笠置山などの名称の山が沢山ある。

 もともと笠は呪術的、霊的な力をもつものと考えられていた。

 地蔵に笠を供えることで幸せになる「笠地蔵」という民話が知られているが、聖物である笠を地蔵に供えることが本来行われていたことが反映しているのではないかと考えられる。

 

 民俗学者吉野裕子は蛇の古語に「カ(カカ)」があるとして笠(カサ)は蛇がとぐろを巻いた状態を表すとしている。

 

 加佐郡においては青葉山、冠島もまた三角錐の形を為しており、特別な信仰の対象であったと考えれる。

 

 青葉山や冠島への崇敬は古代から続くものであるが、その深層にはこうした蛇信仰が存在した可能性が極めて高いのではないだろうか。最初に青葉山には大蛇の伝承が残されていることを述べたが、青葉山もその見事な三角錐のなかにとぐろをまく蛇の姿を見たのか、山容が形作る見事な三角錐を蛇の頭部そのものとみなしたのか‥いずれにせよ古代の人は青葉山に蛇を感得したことは間違いない。

 

 冠島は20万羽ともいわれるオオミズナギドリの繁殖地であり、この海鳥の卵が多いことから大型のアオダイショウが生息するとされ、蛇は冠島に住む竜神の使いと信じられている。

 

 

 

 

 ここで大きな疑問がわく。

 

 蛇が神そのものであるならばなぜ蛇(大蛇)が殺されるという伝承が多いのか?という疑問である。

 

 

 

大蛇はなぜ殺される

 

 

蛇(龍)を退治する神話や伝承が世界中に見られるが、日本にも大蛇を殺すという伝承が全国に存在する。

 

はっきりとした蛇への畏怖や信仰があり、蛇が神と崇められたことは確実であるにも関わらず、一方で蛇が殺される伝承が多いことは大きな疑問である。

 

 ひとつの仮説として考えられることは蛇を信仰した集団がなんらかの理由で排斥、抑圧されるという歴史的な事実が反映されているのではないかいうことである。

 

 特定の集団や血縁に結び付けられた動物をトーテムと呼ぶが蛇をトーテムとしていた集団があったことは縄文土器には蛇を多用したものが多く見られることからも明らかである。つまり蛇をトーテムとする集団が駆逐、排除されたこととかかわるのかもしれないと考えている。

 

谷川健一は縄文中期に蛇に対する信仰が築かれたとするが、その信仰がどのような盛衰をたどったのかその詳細については残念ながら不明というほかない。

 

 

 

蛇―不死と再生の民俗

蛇―不死と再生の民俗

  • 作者:谷川 健一
  • 発売日: 2012/01/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 大蛇と殺される女神

 

 もうひとつの観点から大蛇が殺されることについて考えてみたい。

 

 大蛇が殺されることを『退治』と呼んでしまって良いかとという疑問である。

 

 敗死したり恨みをもって亡くなった霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として 平穏や繁栄を与えるとされた。霊威を和らげ、むしろその異力を取り入れようという発想である。

 

 仏教の天部の神々の多くは仏教に教化されることで仏法を守護したり、仏教徒に福寿をもたらすという考えによるものであり、この御霊信仰との類似は明らかではないだろうか。

 

 蛇が神であるという意識が失われると同時に、蛇神への畏敬が失われ蛇はただ恐ろしいだけの存在になっていかざるえを得なかったのかもしれない。

 

 『退治』というのは多分に現代的な考えであると思う。

 ここでもうひとつの可能性を考えてみたい。それは『殺される神』という視点である。

 

 神が殺されるということが単なる殺戮ではなく神が殺され、その身体が分断されることでそこから様々な新しい生命が誕生するという考えが存在したという事実である。

 

古事記」では大気都比売神(おおげつひめ)にまつわるつぎのような物語がある。

 

 高天原を追放された須佐之男命(すさのおのみこと)は、空腹を覚えて大気都比売神(おおげつひめ)に食物を求める。大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えた。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は大気都比売神が汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を斬り殺してしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。

 

日本書紀」には保食神(うけもちのかみ)について同様の逸話が知られる。

 

 月読尊(つきよみのみこと)が保食神(うけもちのかみ)を訪れた際に、保食神は口から様々な食品を吐出して饗応しようとした。

 その態度に怒った月読尊は剣で保食神を斬り殺す。ところが惨殺された保食神の体の各所から様々な家畜や穀物、蚕などが生育し、それが農業や養蚕業の起源となる。

 

 保食神豊受大神(とようけおおかみ)の母にあたることも重要である。豊受大神は丹後に巨大な信仰圏を持ち、伊勢神宮天照大神と主に祀られている。

 

 体から食物を排泄する神、殺された神が農業の起源となることは非常に奇異な印象を受けるが、こうした神話はハイヌウェレ型神話として知られている。

 

 

 ハイヌウェレはインドネシアのセラム島に伝わる少女の名前である。

 

 ココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。あるとき、踊りを舞いながらその宝物を村人に配ったところ、村人たちは気味悪がって彼女を生き埋めにして殺してしまった。ハイヌウェレの父親は、掘り出した死体を切り刻んであちこちに埋めた。すると、彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となった。

 

 この形の神話は、東南アジア、オセアニア南北アメリカ大陸に広く分布していて特にタロ芋など芋類を栽培して主食としていた民族である。

 

 切り刻まれた死体から生命が生まれるということは現代人にとっては大変に異常なことのように思える。

 

 ジャガイモを栽培する際に種芋を切り分けて土に埋めると発芽して生育する。

 栄養繁殖と呼ばれる植物の増やし方であるが自然現象への観察からこうした生命感が生まれてきた可能性があるのではないかと感じられる。

 

 縄文時代の土器のは多くが乳房、妊娠など女性的特徴を持ち女性的、母親的な地母的性格をもたされていた。

それらを丁寧に作り上げた土偶をいくつもの破砕し、一部を家の中で丁寧に祀る一方で、他の大部分をいろいろな場所に分けて埋めることが行われることが知られている。このことは一見大変に不思議な行為であるが壊された土偶はまさに壊されて各所に埋められることで豊穣をもたらすと考えられたという説が提唱されている。

 

 縄文時代にハイヌウェレ型神話に基づいた感性をもった人々が存在していたというのである。

 

 

日本神話の源流 (講談社学術文庫)

日本神話の源流 (講談社学術文庫)

  • 作者:吉田 敦彦
  • 発売日: 2007/05/10
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ニューギニアのマリンド・アニム族の行うマヨという儀式がある。この儀式は吉田敦彦の「日本神話の源流」のなかに記載されているものである。

 

植物の繊維で作った模型の蛇が地面に埋めておかれ、人々がその蛇を掘り起こして切り刻み、その中に詰められていたサトウキビを食べるという儀式である。

模型の蛇は地母神的存在であり、分断された体から産み出されたものを祭りの参加者が享受するという。

 

 このマヨという儀式が蛇の模型を使っていることは大変に興味深いように感じる。

 蛇を退治するという物語が日本中に語られている。

 これは蛇を分断することで豊穣を祈願することが行われていたのではないかという推理が成り立つのではないだろうか。

 広く行われた祭儀として蛇や龍の模型を分断すること、実際にその形象のなかに食物が詰められていたかもしれない。

 それによって豊穣がもたらされるという願いが込められていたのではないか。

 そして分断による再生(豊穣)という本来の意味が失われて、悪しき存在を退治という物語に収斂してしまったのではないだろうか。

 

 与保呂の大蛇にまつわる伝承は様々なバリエーションがあるが、私の印象ではこの伝承には後世に様々な物語の要素が付加されて成立したものであって、本来の話の核となるのは大蛇が切断されて殺されたという部分ではないかと思う。

 

 ヤマタノオロチが退治され尾の中から剣が取り出される。その剣が三種の神器のひとつとなる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。

 蛇の体内から宝器が見いだされることももしかしたらこのことと関係しているのかもしれない。分断された与保呂の大蛇の尾が祀られている大森神社の祭神は天御影命(あめのみかげのみこと)であり、天御影命(あめのみかげのみこと)は鍛冶神であり1つ目であるとされる。

 

 

退治されし者

 

 退治される大蛇、退治される鬼という2つを並べて考えるとそこに何か共通するものを感じる。

 

 もしかしたらある同じ現象を片方は大蛇退治と表し片方は鬼退治と表したことがあったのではないだろうか?

 

 日本の文献に「鬼」が初めての記録されたのは「出雲国風土記」であり、それは大原郡阿用郷(現在の島根県大原郡大東町)であったという。そしてその鬼は眼がひとつであったという。その地は現在も阿用川という古代の香りを残す地名である。がその阿用川はヤマタノオロチ退治の舞台となった斐伊川(ひいかわ)と僅かしか離れていない。

 

 そのように考えると青葉山の土蜘蛛討伐と青葉山に居た大蛇退治はどこかで共鳴しあっていてもおかしくない‥という連想が思い浮かぶ。

 

 古代にいて蛇は神として特に雷神として畏怖されたと述べたが、今日、私達が雷様(雷神)として思い描くのは鬼の姿ではないだろうか?そのことも蛇と鬼の共通性という問題を考える手がかりになるのではないだろうか。

 

 酒吞童子の物語を大江山ではなく伊吹山とする説があるが、大和武尊(やまとたけるのみこと)は伊吹山で大蛇によって殺される。ヤマタノオロチを退治した大和武尊がなぜ大蛇に殺されるのかというのは興味ある問題だが、伊吹山の神である蛇神がそれだけの霊威ある存在であったことを示唆しているようにも思う。

 

 伊吹山に鬼(酒吞童子)が住んでいたとされことと伊吹山に恐ろしい蛇神が居たということはどこかでつながってくるのかもしれない。

 

 山そのものが蛇とみたてられたこと、鬼にまつわる伝承の多くが山を舞台としていることなども何か非常に深い関係を示唆しているように思う。

 

 鬼の装束は虎の皮の褌と描かれることが多いが、鬼の装束が蓑や笠とされたことについては既に述べた。

 

 笠も蓑も着脱できることが蛇の脱皮になぞらえることが行われたらしい。

 笠も蓑も単なる雨具ではなく神聖なる意味をもたされる場合があったのである。

 神(蛇)とは脱皮するものであり、それが神の神聖性、不死性とつながっていたのであろう。

 そして蓑笠の最も神聖なる素材は檳榔(びろう)であった。檳榔(びろう)は蛇に似た形をした神聖なる樹木であり、その葉は特に珍重された。

 

 

 

常陸国風土記をゆく

常陸国風土記をゆく

 

 

 

 鬼と蛇をつなぐものとして「常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)の夜刀神(やとがみ)の逸話が思い浮かぶ。「常陸国風土記」は古代の東国について記した最古の文献とされる。

 

 継体天皇(第26代天皇)の時代に麻多智(またち)という人物が新たに田を開墾して献上したが夜刀(やと)の神が群れを引き連れて妨害し田を作らせなかった。土地の言葉で蛇を夜刀(やと)といいその形は蛇の体で頭に角があったという。麻多智(またち)は武装しこれらの夜刀(やと)を打ち殺し追い払った。

 そして山の登り口に境界の目印をたてて境界から上は神の土地とし、下は人の土地として田を作ることとし、自らが神主として夜刀を敬い祀るので恨まないでほしいと伝える。

 

 この逸話は山の神であり蛇の神であった夜刀と人間と争いの物語であり夜刀の神は蛇神にして額に角があったことも鬼と蛇の繋がりを感じさせる。

 

 なお、「常陸国風土記」のなかではふれられていないが 夜刀は「谷人」(やと)であり山間の水源で製鉄に従事していた人々であり一方、田の開墾とは稲作の田んぼではなく製鉄のために砂鉄を沈殿させて選別する水簸(すいひ)の圃場を作るためであったともいわれる。

 水簸(すいひ)とは比重により水中での沈降速度が異なることを利用して、底に沈んだ重い粒子を取り出す選鉱方法である。つまり夜刀の物語は製鉄に従事する人々の抗争であるという解釈がなりたつ。

(農業は鉱業と無関係のように思われるが、実際は砂鉄の採集には大量の水を管理する技術が伴うことから稲作の発展と鉱業との間には非常に深い関係があったように思われる。)

 

 土着の集団が新たにやってきた集団によって駆逐されていく様子は退治される鬼の姿にも重なるものがある。  

そして勝者にも少なからず敗者に対する畏敬が記されていることが救いのようにも思える。