海人の郷 『舞鶴歴史物語』その3

 

 

 

 『丹後風土記残欠』に舞鶴湾に汎海郷(おおしあまのさと)という大きな島があり大宝元年(701年)に一夜にして海底に没したという記事がある。

 

 

 

凡海郷者。

往昔。去此田造郷万代浜四拾三里。去□□三拾五里二歩。

四方皆属海壱之大島也。

所以其称凡海者。故老伝日。往昔。

治天下当大穴持命与少彦名命到坐于比地之時。

引集海中所在之小島之時。潮凡枯以成壱嶋。

故云凡海矣。

于時。大宝元年三月己亥。地震三日不已。此郷一夜為蒼海。

漸纔郷中之高山二峯与立神岩出海上

今号云常世嶋。亦俗男嶋女嶋。

毎嶋在神祠。所祭者。天火明神与日子郎女神也。

是海部直並凡海連等所以斎祖神也。

 

 

 

凡海郷は

田造郷の万代浜から四十三里 □□から三十五里二歩に位置する

四面皆海に囲まれた一つの大島であった

凡海と称する所以は 故老の伝て曰く 昔

天下を治めるに当り大穴持命と少彦名命がこの地に到った時に

海中の小島を引き集めた時 潮が凡て枯れて一つの嶋となった

故に凡海と云う

大宝元年三月己亥 地震が三日続き この郷は一夜にして蒼海となった

漸く郷中の高山二峯と立神岩が海上に出ているのみである

今では常世嶋 亦は男嶋女嶋と呼ばれている

嶋毎に祠が在り 天火明神と日子郎女神が祭られている

これは海部直並びに凡海連等らが斎祭る祖神である

 

 

 

 

 

 汎海郷(おおしあまのさと)が海底に没したという伝承は昭和に入って行われた地震学の調査で否定されているようである。一方で「続日本記」に大宝元年に「丹波国地震三日続く」とあり、飛鳥時代に京都北部を襲った大地震「大宝地震」があったことは確実と考えられる。

 

 近年、舞鶴湾の海底に階段状の遺構が発見された。これこそが汎海郷の遺物ではないかと注目を集めたことが記憶に新しい。子供の頃、アトランティス大陸ムー大陸といった失われた大陸の伝説に胸を躍らせたが、地元にそうした伝承があることを愉しく思う。

 

 「汎海」(おおしあま)とは海人の一氏族の呼称でもある。ここでは水上交通に長けた人々を便宜上「海人」という言葉を使うが、その活動は海だけではなく河川、琵琶湖などの淡水湖でも広く及んだ。その一部は内陸部に移動し、陸上でも活発に活動をおこなった。そうした人達が縦横に活躍し歴史の大きな原動力になった時代があった。 

 

 現代の海人といえば漁業、海運、造船に携わる人々ということになるが、実は私達は無意識のうちに歴史を陸地から見ている。その頭を切り替えないと恐らく本当の姿は見えてこないのかもしれない。

 

 海上交通の安全を祈願した神は多いが陸上の交通を祈願した例は不思議なほど少ない。そのことは長らく交通の中心が海上であったことと関係するらしい。

 

 中国大陸から日本列島を俯瞰すると大陸と日本を隔てる日本海が驚くほど小さく感じられる。日本列島を逆さになるように世界地図を広げると日本海はアフリカ大陸とヨーロッパ大陸に挟まれた地中海の如くに思える.

 

 地図を見ると複雑な海岸地形がいかにも良港のように見えても、喫水の浅い古代の船にとって海面との高低差があると接岸することは容易ではない。接岸に容易な良港は海流によって堆積した砂礫(されき)が積もってできた地形であった。

 砂礫が堆積すると砂嘴(さし)などの地形が発達する。天橋立の美しい松並木の下にあるのは海流をよって運ばれた砂礫である。

 

 陸地の湾曲と砂礫によって波の穏やかな内湾が作られ潟湖(せきこ)などの地形が形成される。そうした内湾は船が停泊するのに最も適した環境であったにちがいない。日本海沿岸には遠浅で波の穏やかな内湾が点在したことは航海を容易にしたはずである。

 

 平成7年から大浦半島の浦入(うらにゅう)では関西電力舞鶴発電所建設工事に先立つ発掘調査が本格的に行われ、縄文時代から平安時代にかけての集落遺構や製塩遺構、古墳の存在などが判明した。

 

 浦入(うらにゅう)には300メートルもの砂嘴が形成され「日本最古の船着き場」として報道された。桟橋用とみられる杭や碇(いかり)用の平石も見つかっている。また浦入では5000年以上遡る時代の世界でも最古級の丸木舟が発見されている。

 

 舞鶴海上にあった汎海郷(おおしあまのさと)が事実とすれば浦入はこの汎海郷(おおしあまのさと)に面していたと考えられる。「加佐郡誌」は大浦および由良川下流一帯を「汎海郷」としている。

 

 

 

 天皇即位式では夕に食べる「悠忌」(ゆき) 朝に食べる「主基」(すき)の大嘗会があり、天武天皇(第40代天皇)が即位した時に「主基」(すき)は加佐郡からもたらされ、その地が大浦の千歳あったと「田辺府誌」に記されている。

 

 壬申の乱大友皇子(おおとものおうじ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)が抗争した古代日本最大の内乱であるが、大海人皇子は第40代天武天皇として即位する。

 大海人(おおあま)という名称がしめすように天武天皇の養育には海人である凡海麁鎌(おおあまのあらかま)が関わったとされ、それが千歳から「主基」(すき)がもたらされたこととつながるのかもしれない。(「汎海」は「おおあま」と訓むことも可能である。)

 

 鹿原の阿良須神社(あらすじんじゃ)は豊受大神を祀るが、天武天皇の第一王子であった高市皇子ゆかりの神社でもある。高市皇子の母は宗像系の海人である。

 

 また阿良須神社は近世初頭まで「大倉木社」(おおくらきしゃ)と呼ばれていた。

 そこに祀られている大倉岐命(おおくらきのみこと)については宮津籠神社(このじんじゃ)に伝わる日本最古の竪系図である国宝「海部氏系図」に記載がある。海部氏に一六世大倉岐命という人物があり、最初の丹波国造(たんばのくにのみやつこ)であったとも伝えられる。阿良須神社近くの一帯を小倉と呼ぶが、小倉という地名もこの大倉岐命(おおくらきのみこと)にちなむものと考えられる。

 

 また「海部氏系図」によれば大倉岐命(おおくらきのみこと)は桑田郡大枝山(現在の老ノ坂のあたりであろうか?)で大蛇を退治した功績により丹波国造に任じられたとある点も興味深い。

 

 すっかり「陸人」になって私達にとって海人の自由さは理解しづらい。

 

 

古代海人の世界

古代海人の世界

 

 

 

 

 戦前まで若狭小浜には沖縄本島の最南にある糸満の漁師が毎年のように漁にやってきたという。

 丹後には浦島太郎や八百比丘尼のように海にまつわる不老不死をモチーフとした伝説が多いことも、こうした南方系海人の活動と関わりがあるように思う。

 海は人を隔てるのはなく結び合わせるものだった。その海を自由に往来できた海人は舞鶴にも多く存在していたと考えられる。舞鶴には海人の痕跡が多数のこされている。それらの海人の活動が日本史の大きな流れと深くつながっているようである。

 

 

 

 日向の高千穂に天孫降臨し降り立った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は豊かな安住の地を求めて「笠沙」(かささ)に至る。笠沙は野間半島(鹿児島県南さつま市笠沙町)の一帯であったとされる。

 笠沙の“沙”とは船着きの海岸地形を連想される。“笠”とは航海の目印となっていた野間岳であったと考えられる。

 

 古代の人々は三角錐、円錐形の山を神聖視し、海岸近くにある特徴的な山は航行の目印となった。

 航海の目印として星など天体を利用することを天文航法といい、陸上の地形を航行の目印とするのが地文航法である。日本海沿岸では地形による地文航法が盛んであったと考えられる。

 

 海岸近くの山や海岸近くにはえる高木は航海のための地文であると同時に航海の安全を祈願する対象でもあった。私達は山と海を反対語のように考えることが多いが、古代の人々にとって山の神は航海の安全を祈願する海の神でもあったと考えられる。

 

 

富嶽百景・走れメロス 他八篇 (岩波文庫)

富嶽百景・走れメロス 他八篇 (岩波文庫)

  • 作者:太宰 治
  • 発売日: 1957/05/06
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 太宰治が「富嶽百景」で書いたように名峰富士山は少し裾野が広がりすぎている。それに対して福井方面から観る青葉山はバランスの取れた見事な三角錐である。人々がこの秀麗な高嶺に特別な意識を持ち続けたことは間違いがない。

 

 青葉山は東西に2つの峰を持つことから、沖を航行する船から観る山の形で自分の位置を知る「山あて」が可能であったことも特別な存在であったのはずである。

 舞鶴の旧称である加佐郡については諸説あるが、この地に豊受信仰が盛んであり、豊受の「受」を「かさ」と呼んだことからの呼称とされる。ただなぜ「受」(うけ)が「かさ」と読まれるのかその理由は定かではない。

 (青葉山を『笠』と呼んだこともあったことから加佐郡という名称が生まれた可能性を考察しても良いのではないかと考えるのだが。)

 

 

 丹後の古墳文化は顕著なものがあり、日本海側の古墳の上位三位を占めているのが次の3つの古墳群である。

 

 

 網野銚子山古墳(京丹後市網野町網野)全長一九八メートル

 神明山古墳(京丹後市丹後町宮)全長一九〇メートル

 蛭子山古墳(与謝郡与謝町明石)全長一四五メートル

 

 

 大和王朝を除く地域国家のうち最大のものが出雲であったが、出雲で最大の古墳は島根県出雲市今市町にある今市大念寺古墳(いまいちだいねんじこふん)である。だがその全長は九二メートルであり、丹後の三大古墳が突出して巨大であることが分かるだろう。

 

 

 神明山古墳は全長一九〇メートル、後円径一二九メートルの巨大古墳であるが、潟湖である竹野湖のほとりにあり古代の海岸線と平行に築造されている。葺石が貼ってある墳丘は海から目立って視えたに違いない。

 

 日本最大の古墳であり「百舌鳥・古市古墳群」として世界文化遺産として登録された大仙陵古墳仁徳天皇陵)も築造当時は現在より遥かに海岸線に近く、海を往来する人々にその威容を示していたはずである。

 

 古墳は長らく権力者の墳墓と考えられたが、このように海を意識した構築物でもあったことは興味深い。

 古墳は公共事業や臨海開発の側面をもっていたともいわれ、古墳で交易が行われたという説もある。古墳は先進技術を駆使して作られ、港湾と一体化した商業的、交際的施設だったのだろうか。

 

  丹波、丹後、若狭の重要性のひとつが日本海沿岸の海上交通であったことは間違いない。

  特に当時の海上交通は鉄資源の搬送と不可分であったと考えれる。朝鮮の鉄資源の輸送が政権の権力を左右するほどの重要性を持っていたと推測される。

 その主要ルートは長らく瀬戸内海を経由するルートと日本海沿岸のルートであったが、その担い手は海人達であった。日本海側、特に丹後に巨大な古墳が築造されたことはこうした日本海ルートの重要性と結びついていることは間違いない。

 

 海人という言葉から海上交通に関わる人々を連想するが、海人の活動は海運や漁業は勿論、製塩や冶金にも大きく関わった。谷川健一は海人が金属の精製に深く関わったことを指摘している。大海人皇子を養育した凡海麁鎌(おおあまのあらかま)は大宝元年に冶金のために陸奥国に派遣されたことから、麁鎌が鉱山採掘や金属精錬に詳しい人物であったともいわれる。

 

 

海人氏族と地名

 

 

 

 

 

 海人は多くの氏族に分かれており、大きくは安曇(あずみ)、宗像(むなかた)、大和(やまと)の3系列15氏族が知られている。「日本の古代8 海人の伝統」のなかに丹後の海人と地名について書かれているが、「わだ(わた、はた)」、「あかし」、「あま」に類する地名が海人に由来するものであるとしている。

 

現在地名でで海人関係を拾えば舞鶴市加佐郡)に和田・八田、大江町に(加佐郡)に和田垣内、宮津市(同上)に由良・畑、加悦町(与謝郡)に和田・明石・明石岳、網野町竹野郡)に和田、丹後町(同上)に畑、弥栄町(同上)に和田野、畑、船木、久美浜町熊野郡)に海士・畑があり、およそ海人に事欠かない。(「日本の古代8 海人の伝統」)

 

 大阪の岸和田をはじめ瀬戸内海、大阪湾、熊野に多数の<和田>系地名が存在するが、倭太(わた)という海人氏族にゆかりの地名であるという。「わた」という言葉から思い起こされるのは海神を意味する「わたつみ」であろうか。

 

 

 倭太氏の祖先は椎根津彦命(しいねつひこのみこと)をとされるがこの椎根津彦命は神武天皇の東征を導いたとされる海の民である。<和田>地名は瀬戸内海、大阪湾、熊野など神武天皇の東征のルートに沿って分布していて興味深い。

 

 大阪の岸和田も中舞鶴の和田も海人に由来する地名としてつながるというのは面白い。

 国鉄若狭和田駅のある和田という地名が思い起こされる。高浜には小和田(こわだ)という地域があり。小和田古墳という墳墓が発掘されている。石矛と石剣を重ねて埋葬するという特異な副葬品が有名である。

 

 海人である「倭太」が「田」や「畑」など農業的な文字に置き換えられると海人とは真逆の印象になってしまう。これも陸からものを観る私達の習慣なのかもれない。

 

 

耳なる人々

 

 『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(みみ)」および「彌彌那利(みみなり)」がいたことを記している。

 『古事記』、『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(すえつみみ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(みしまみぞくいみみ)、丹波地方に玖賀耳(くがみみ)、また但馬地方に前津耳(まさきつみみ)が記録されているが、いずれもその地方の首長であったと考えられている。『出雲国風土記』には波多都美(はたつみ)や伎自麻都美(きじまつみ)など「み」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である。

 

 また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(すがのやつみみ)、布帝耳(ふてみみ)、鳥耳(とりみみ)、多比理岐志麻流美(たひりきしまるみ)、天日腹大科度美(あめのひばらおおしなどみ)も地域的首長と考えられる。

 

 

 土偶のなかには大きな耳を特徴としたものが見つかることがあり、実際に大きな耳飾りをつけるなどして耳朶を大きくするような身体加工を行っていた海人もあったも考えられる。

 

 

 海人の一部は騎乗騎射を好むとあって大変に精悍で剛強な一族であったとも考えられ、蝦夷熊襲のイメージに近い習俗についても記録されている。崇神天皇(第10代天皇)の時代に討伐された青葉山の玖賀耳御笠(くがみみのみかさ)もそのような存在であったのかしれない。

 

 

 

 大浦半島にある舞鶴自然文化園の入り口辺りが三浜峠である。

 麓の赤野から三浜峠に至り反対側に下ると三浜に至る。緩やかなカーブを繰り返しながら下ると眼の前に海がひらけのどかな海村の風景が広がる。明澄な海岸、砂浜と松林、さらに沖に浮かぶ冠島、沓島、アンジャ島、磯葛島、沖葛島などの連なりが見える。地元の方には特別ではない風景だろうが見慣れない者には心洗われる眺望である。

 

 毎年1月18日には海蔵寺臨済宗東福寺派)で三浜の経箱行事とよばれる祈祷会が行われる。

 多禰寺(真言宗東寺派)の住職が海蔵寺の本堂にて大般若経を加持する。当地の子供が裃という古式の装束でこの経箱を持ち村の各家を回る。

 こうした古式床しい行事が連綿と続くことは海の関わる人々が航海の安全や豊漁を祈って古来の信仰を固く守り続けてきたからであろう。

 

 三浜には興味深いテーマがいくつも眠っているが、その一つは当地の三浜(みはま)という地名そのものである。

 同じ大浦に千歳があり旧称は「波佐久美」(はさくみ)であった。

 丹後では三津、三原、久美浜、三原など「ミ」音の共通する海浜の地名が多い。

 さらには香住(かすみ)、居組(いぐみ)、陸上(くがみ)、岩美(いわみ)など山陰の日本海側にこうした地名を見ることができる。

 若狭では福井県美浜町に耳村があり、耳川という河川がある。美浜という地名も恐らくは耳浜だったのであろう。

 

 「古事記」には崇神天皇(第10代天皇)の時代に日子座王(ひこいますのみこ)による陸耳御笠(くがみみのみかさ)退治の記事が残されているが、同様に但馬の海岸にも広く日子座王(ひこいますのみこ)による陸耳御笠(くがみみのみかさ)退治の伝承がのこされていることから陸耳御笠が海人系であった可能性が高いと思われる。

 

 

 

 宮崎県日向市美々津町には「日本海軍発祥の地」という碑がある。

 耳川(美々津川)の河口にある美々津(みみつ)から神武東征の出発地であることにちなむものである。

 

 神武天皇は日向を発しその多くを海路によって宇佐、安芸国吉備国、難波国、河内国紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原に宮を定める。

 

 天皇家の始祖である神武天皇には海人と共に行動した“航海王”の側面がある。そして多くの海人に助けられたことが印象的に記されている。

 

 

 

 

 

海人と蛇

 

 

蛇 (講談社学術文庫)

蛇 (講談社学術文庫)

  • 作者:吉野 裕子
  • 発売日: 1999/05/10
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 蛇に対する信仰は縄文時代より続くものであり、仏教以前の精神世界のなかで大きな位置を占めていたと思われる。

 古代の人々は山をトグロを巻く蛇に見立てたように、海上に浮かぶ島々にも神である蛇の姿を見たことは容易に想像できる。

 三浜沖の磯葛島には大蛇の伝説が伝わり、これも古い蛇信仰の痕跡ではないかと思われる。

 

 古代の海人の多くが自分達の祖先を海底の龍蛇と捉え、体に鱗など入れ墨をする習慣があったとされる。海人に入れ墨の習俗があることは「魏志倭人伝」にも記述がある。人類学者の金関丈夫は海人が胸に入れ墨を入れる胸形(むねかた)が海人の名称である宗像(むなかた)になったという説を唱えた。また緒方姓の由来は同様に龍蛇の尾の入れ墨(尾形)に由来するともされる。海人の代表的存在である安曇氏も眼のふちに入れ墨をして安曇目と言われた。

 

 

 海人は天皇家と深く関わる一方で排斥されたものも少なくない。

 大蛇を退治するという伝承と鬼退治が関わる可能性について述べたが、竜蛇などの入れ墨をした集団、もしくは竜蛇を信仰する集団との闘争を大蛇退治になぞらえることもできるのではないだろうか。

 

 舞鶴湾の烏島山頂には弁天堂があり巳の日に佐波賀地区で祭祀が行われる、。

 弁財天の信仰は龍や蛇への習合しており古代の蛇信仰はこうした仏教のなかへ包摂されていった可能性があるのではないかと考えられる。

 

 金剛院の本尊として最初に勧請されたのは高野山の弁財天であったと伝わる。

 金剛院を開いた高岳親王は海の祈祷所である鎮海軒で祈祷を行ったとされるが、水の神である弁財天に祈願を行った可能性が高い。鎮海軒があったのは舞鶴海軍鎮守府の初代長官であった東郷平八郎の官舎の辺りであったという。

 海上交通は常に遭難の危険が伴うので必然的に安全への祈願を通じて様々な信仰が生まれた。なかでも十一面観音や金毘羅信仰は龍蛇との関わりが濃厚である。

 

 日本仏教は神道と融合し、諸尊諸仏並びに諸神を祀る。特に密教では複雑で多様な尊格が信仰され、そのなかに古代の精神世界は吸収されていったのかもしれない。古代の信仰の中心であった山への畏敬も修験道など仏教との習合により融和していったのかもしれない。

 

 本堂の屋根から突き出した部分を向拝(こうはい)と呼ぶが向拝の彫刻にはしばしば龍が用いられる。近世に北近畿一円の神社仏閣に大きな足跡を残した彫刻家の集団が中井権次一統であり、多禰寺、金剛院の本堂正面には欅(けやき)の一木から彫り出した龍の彫刻が掲げられている。龍は雨風を呼ぶので火災に逢わないことを祈願したとも、仏法を守護する霊獣であるともいわれるが、それらも古代の蛇信仰の末裔なのかもしれない。

 

 古代の蛇信仰はあるものは闘争のなかで排斥されることもあったと思われるが、様々な信仰のなかに穏やかに包摂されていったものもあったに違いない。

 

 金剛院の海の祈祷所であった鎮海軒の寺基を継いだのは室町時代の傑僧である春屋妙葩(しゅんおくみょうは)であり、雲門寺(臨済宗天龍寺派)の開祖である。春屋妙葩は蛇島の竜神から「竜の玉」を得たとも言われ、こうした伝承も蛇信仰の行方に関わるのかもしれない。