朱の輝き 『舞鶴歴史物語』その5

 

 

 

 日本が文明国家としての体裁を整えるには大量の貴金属を必要とした。私達が想像する以上に金属を渇望されていたのである。

 

 文武天皇(第42代天皇)の治世に対馬から金が献上された。このことから元号「大宝」(701~704)が制定された。<大いなる宝>とは金のことにほかならない。

 

 続く元明天皇(第43代天皇)の時代、武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)から精錬を必要としない純度の高い銅が献じられたことにより年号『和銅』(西暦708~715年)が定められた。

 ちなみに『丹波国』から丹波日本海沿岸の丹後が別れたのが和銅6年(713年)である。

 

 

 8世紀最大の国家事業のひとつが奈良東大寺の大仏(盧舎那仏坐像)の建立である。

 大仏は銅製の本体に金で鍍金(メッキ)を施されていた。金色に輝く巨大な坐像は台座を含めれば20メートルに近く、完成された大仏の威容は見る者を圧倒したにちがいない。

 

 

 鍍金(メッキ)に必要な資材は水銀である。

 金に水銀を加えると金と水銀の溶け合ったアマルガム(合金)が生じる。それを仏像の表面に塗り加熱すると、水銀が気化して仏像の表面に金が付着する。

東大寺要録」には大仏建立の資材として練り金一万四千三十六両、水銀五万八千六百二両という莫大な数字が残されている。

 

 

 水銀(Hg)の原料は辰砂(HgS)という鉱物である。

 辰砂(HgS)は水銀(Hg)と硫黄(S)の化合物であり朱、朱砂、丹、丹砂、朱沙など様々な名称でよばれた。

(以下では便宜上“朱”という名称を用いる)

 朱は火山活動に伴って形成されることから火山国である日本の至るところに生成された。

 

 

 

朱の歴史

 

 朱の利用は遅くとも縄文時代晩期と考えられる。縄文人も既に朱を利用していたことに驚きを禁じえない。その用途は顔料、塗料、防腐剤などの利用が多かったと考えられる。

 

 生命力の源である<火>、<血液>、<太陽>は共通して赤い色を有している。

 古代の人々は朱の色を特別なものとみなしたちがいない

 

 朱の力が邪悪を遠ざけること、生命の賦活をもたらすなどの考えも存在したといわれる。石棺に朱が敷き詰められているのは防腐的な意味と併せて悪しきものを遠ざける辟邪(へきじゃ)が目的であろう。青葉山の陸耳御笠(くがみみのみかさ)を討伐させた崇神天皇(第10代天皇)の陵墓とされている奈良県天理市の行灯山古墳には200キロもの朱が使われていたという

 

 

古代の朱 (ちくま学芸文庫)

古代の朱 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:松田 壽男
  • 発売日: 2005/01/01
  • メディア: 文庫
 

 

 

 鍍金(メッキ)の他に、金銀の採掘にも朱は必要不可欠であった。

 鏡や刀剣の研磨、さらに時代が下っては白粉の原料(特に伊勢産の白粉が有名である)としても利用された。

 

 朱の需要は大変に高く、貴重であった。

 「朱一匁、金一匁」ともいわれ、金と等価もしくは金に準ずる価値を認められていたと考えられる。

 

 現在、水俣病などの影響で水銀は有毒な金属と考えられ顧みられることが少ないが、朱はかっては金と同様の価値を持つ鉱物として国内の至るところで採掘され利用されていた。現在と全く異なる価値観で人々が生活し社会が動かされていたことは歴史の面白さではないだろうか。

 

 3世紀末に書かれた「魏志倭人伝」でも日本の鉱物について「真珠、青玉を出す。その山には丹あり」と記している。「真珠」は真珠貝からとれる<パール>ではなく、朱であると考えられている。

 中国でも朱を貴重と考えていたからこその記述であろう。特筆するほど大量の朱が採掘されていたのかもしれない。

 

 大和王権の発祥地であり、邪馬台国の候補地でもある桜井市崇神天皇(第10代天皇)が初めて王宮を定めて以来、大和王権の要地となる。桜井市近辺には大和水銀鉱床とよばれる国内でも最大級の朱の鉱床が存在する。この水銀鉱床における朱の発掘は大和王権を支える大きな力となった可能性がある。

 

 大和王権の発祥は神武東征に遡る。九州に天孫降臨した神の子孫である神武天皇が日向から瀬戸内海の海路を経て奈良に至る。

 『邪馬台国は「朱の王国」だった』の著者である蒲池明弘氏は従来の朱の研究を総合したうえで朱の伝承を実地に調査されている。金の採掘地と朱の採掘地に着目すると神武天皇の東征ルートと金山、朱の採掘地が重なることを指摘されていて興味深い。

 

 古代日本は大量の鉄を輸入した。古墳時代後期の5~6世紀まで朝鮮からの鉄の輸入が続いたとされる。輸入の主要ルートは瀬戸内海と日本海沿岸の海路であり、丹後の重要性は日本海沿岸の海路とつながっている。

 日本に大量の鉄が輸入されたことは事実だが鉄と交換に輸出されたものが何であったか?という問は難しい。すぐに思い浮かぶのは金やヒスイであろう。そして日本で大量に産出された朱が鉄との重要な交換材であったという指摘があることは重要だろう。

 

 丹後は製鉄の先進地域で製鉄生産においては大和を圧倒しているが、製鉄先進地域で日本海沿岸を掌握していた丹後に対して大和王権がどのように対抗していったのかという点は興味深い。もしかしたら豊富に生産される朱が大和王権を支えていたのかもしれない。

 

 

 

邪馬台国は「朱の王国」だった (文春新書)

邪馬台国は「朱の王国」だった (文春新書)

 

 

 

舞鶴と朱の地名

 

 

  朱が採掘された土地には「にゅう」「に」「ね」という音の地名が多いとされる。丹生(にゅう)、壬生(にぶ)、仁尾(にお)、入谷(にゅうたに)、大入(おおにゅう)など様々である。

 また朱の色を反映して朱の産地に「赤」「血」などの文字が使用される例もみられる。赤坂、赤井、赤尾、血原、血浦などの地名がその例である。

 

 

 舞鶴を含む丹後から若狭にかけて極めて大きな水銀鉱床が存在する。舞鶴で朱の生産を想像させる地名として浦入(うらにゅう)、二尾(にお)、女布(にょう)などが挙げられる。そしてはっきりと“丹生”そのものを地名としているのが大浦半島の大丹生(おおにゅう)である。

 朱の研究の先駆者である松田壽男も著書である「丹生の研究」「古代の朱」のなかで舞鶴の大丹生を取り上げている。なお、奈良時代には大浦半島の大部分は若狭国であった

 

 

多禰寺と大丹生

 

 大丹生(おおにゅう)の近くにあるのが多禰寺(真言宗東寺派)である。

 

「多禰」(たね)という寺名の語源に<砂鉄>の可能性があることを別項にて述べたが、ここではもうひとつの可能性を示したい。

 

 同じ言葉を音読みと訓読みで使い分けることがある。地名では「浅草」(あさくさ)と訓読みするのに対し寺名では「浅草寺」(せんそうじ)と音読みすることがある。「多禰」の音読み「たね」に対して訓読みでは「おおに」「おおね」と読める。これは大丹生(おおにゅう)と類音である。

 

 多禰山の麓は赤野とよばれる。実際、土壌には赤色の土壌がいたるところで露出しているのを見かけることができる。大丹生、赤野といった地名からも大丹生から多禰寺一帯が朱の産地だった可能性は極めて高いといえる。

 

 小浜の遠敷(おにゅう)はかっては“小丹生”と表記されていた。若狭にも朱にまつわる地名が多い。美浜の原電の所付近も「丹生」という地名であったとされる。

 高浜の馬居寺付近に伝わる逸話として、不作の続く畑を掘り返したところ壺が見つかり。中に大量の朱と小判が入っていたという。

 

 

 東大寺の年中行事である修二会のお水取りは大仏殿の脇の二月堂で行われる。初めてお水取りが行われた時に諸神が参集するなか若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん)が遅れたため、遠敷明神がお詫びに水を献ずることとなったのがお水送りの起源とされる。

 「二月堂縁起」によると遠敷明神の力によって岩の中から黒と白2羽の鵜が飛び出し、そこから水が湧き出たという。

 岩の中から鵜が飛び出すとは奇妙な話であるが、朱にまつわる地名に「にう(にゅう)」があることを知っていれば、二羽の鵜 が「にう」であることは明らかだろう。

 

 

 丹後から若狭にかけて朱の産出を示す地名が分布しているということは、大量の朱が採掘され国外に輸出されていた可能性もあるのではないだろうか、中国や朝鮮に日本の朱が輸出されていたことは確かだが、それがいつからどれくらいの規模で行われていたかは不明である。

 門脇禎二氏は大和王権や出雲、吉備などと並ぶ独立した勢力が丹後にあったとして丹後王国論を唱えた。

 丹後王国が丹後から若狭にかけて産出される朱の輸出を行っていたと考えることも可能ではないかと思う。

 

 

 

日本海域の古代史

日本海域の古代史

  • 作者:門脇 禎二
  • 発売日: 1986/10/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

丹の神様 丹生都姫

 

 全てのことが信仰に結びついた時代にあっては朱の採掘も様々な信仰や呪力と結びついた。

 朱にまつわる信仰として有名なのは丹生都姫(にうつひめ)や丹生明神である。

 

 丹の採掘に携わった人々は、定着した土地でこの女神を祀り、朱が枯渇すると新たな土地に移動した。

 丹生都姫は朱の女神であると同時に水の女神であり、請雨や止雨などの天候祈願と結びついていた。

 水銀が水金(みずかね)ともよばれるように水と関わると考えられていたのかもしれない。

 朱が枯渇して採掘者が移動しても、丹生都姫は水の神として農業と結びつきその信仰が残されることもあったであろう。

 

「丹生の研究」によれば丹生都姫を祀る神社は全国に159社あるという。最も多いのは和歌山県である。

特に丹生氏という氏族がこの丹生都姫を祀ったとされる。

 

 空海高野山に道場を開くに当たって丹生都姫の力を得たとしている。おそらく丹生氏の協力があったことを示すのだろう。空海は冶金、鉱業、金属製錬の知識や技術をもっていたと考えられる。空海の山岳修行した高野山と四国には巨大な水銀鉱床のあることが知られている。

 

 

深沙大將

 

 

 

 

 多数の仏像のなかでも作例の少ないもののひとつが深沙大將がある。作例が少ないためこの尊格の存在を知っている人は少ない。

 

 深沙大將の由来で最も有名なのは玄奘三蔵、いわゆる三蔵法師との関係である。玄奘三蔵がインド求法の旅の途中、タクラマカン砂漠で遭難の危機にあったところを深沙大將が救済したことが有名である。(「西遊記」に登場するお供の沙悟浄は深沙大將をモデルにして創作された。)深沙大將は三蔵法師を守護したことから仏法或いは般若経を守護する護法神とされている。

 

 文化財として見た場合、国宝の深沙大將は存在せず、重要文化財の深沙大將が4体存在する。

 明通寺(真言宗御派)、高野山の霊宝館、岐阜の横蔵寺(天台宗)、当地の金剛院(真言宗東寺派)の4例である。

 

  深沙大將は水銀と関係あるのではないか?というのが筆者の長年の疑問でであり仮説である。

 

 「深沙」を清音で訓むと「しんしゃ」「しんさ」となり「辰砂」に通じる。

 沙が砂と同じ意味であること、辰砂の「辰」は蛇の意味であるが深沙大將は多くの場合、手に蛇をもっている。

 

 金剛院は明通寺と同じく若狭の仏教文化のなかに包摂されているが若狭が朱の産地であることは既に述べた。高野山空海が開山にあたって丹生都姫から委譲されたように、高野山全体が水銀鉱床と不可分の関係にある。

 横蔵寺については朱との関係が不明であるが、横蔵寺はミイラのある寺として有名である。即身成仏では水銀が用いられたことは広く知られている。そのことも横蔵寺が朱と関係している可能性を示唆しているように思う。

 

 日本で最大の水銀の産地は伊勢であるが、やはりというべきか伊勢にも深沙大將が祀られている。

 鈴鹿の神宮寺(真言宗)に平安時代(推定)の深沙大將が収蔵されているのである。作例が非常に少ない深沙大將が伊勢に祀られていることは朱と深沙大將の関係を補強してくれるのではないだろうか。

 

 金剛院は中生代には海底であったと考えられ、境内全体が巨大な石灰岩の岩盤の上に存在している。朱は火成岩から採取したとされるが石灰岩からの採取も可能であったとされる。かっては朱の採集が行われていたのかもしれない。

 

 金剛院には快慶作の執金剛神(しつこんごうしん)と深沙大將(じんじゃたいしょう)が所蔵されている。   高野山霊宝館の深沙大將も執金剛神と対になっており、この両像も快慶作である。

 この両像を併せて祀ることにどのような意味であったのだかという点も興味深い。

 

「金剛」という言葉は仏教、特に密教で用いられることが多い。

 ダイヤモンドを金剛石とよぶように、金剛とは本来、ダイヤモンドの意味である。そのことから貴重にして堅固なる仏の教えを金剛と呼ぶとされる。

 

 但し「金剛」という文字への連想からこの言葉は金(gold)の意味で使われていたのではないかと考えている。製作当初の執金剛神は美麗な金属の甲冑をまとい金色に輝く金剛杵を振り上げていたはずである。甲冑も金剛杵も金のイメージである。

 

 水銀と金はしばしば併せて用いられている。鍍金(めっき)の工程は金と水銀を併せて用いるのは勿論のこと金の混じった鉱石から金を取り出すのも水銀を用いる。

 金を含む鉱石を砕いて水銀と混ぜると水銀が金を融解する。それらを加熱して水銀を気化すると金を採ることができる。この方法は現在でも途上国で最も簡便な金の採取方法として使われている。

 

 執金剛神(しつこんごうしん)と深沙大將という組み合わせは金と水銀という不可分の存在から生まれたものではないだろうか。 

 

 

水銀の隠された歴史 

 

 水俣病で有名なように水銀は毒性が強い金属である。

 大仏建立の際には大仏の表面に金メッキを施す作業において膨大な量の気化した水銀が排出されたはずである。気化した水銀を吸引して関係者の多くが亡くなったにちがいない。この時に大きな環境破壊がおこり平城京から平安京への遷都の要因となったという指摘もある。

 

  水銀のもうひとつの一面は水銀が神仙思想に基づく仙薬として用いられたことにある。

 

 中国の医薬書「新修本草」には「(水銀を)久しく服用すれば、神明に通じ、不老で、身が軽く神仙となる」との記載がある。水銀が仙薬であったことは日本でも広く知られていた。「新修本草」は奈良時代平安時代には典薬寮医学生の教科書として用いられていた。

 

 水銀は金属でありながら液体となること、金をも溶かす力を持っていたこと、液体から気体へ、気体から液体へと容易に変化することなど特異な性質をもっていたことからそうした効能が信じられたのであろう。

 

 仙人は身体を飛翔させると信じられていた。水銀が気化することを観察して、水銀を服用することでそのような能力を人間も得られると考えていたのであろう。

 

 だが水銀は強い毒性をもつため服用を誤って死亡するものが多かった。冨貴や権力を手にした者が求めるのは不老不死の肉体である。権力者の多くが仙薬を服用した。唐王朝では歴代の22人の皇帝のうち6人が水銀中毒で死亡したともいわれている。

 

 

 丹後と若狭には不老不死にまつわる伝承が多い。

 

 秦の始皇帝が不老不死の秘薬を求めて日本に徐福を遣わしたとされる伝説が全国に残されている。その数は30ヶ所に及ぶが日本海側では与謝郡伊根町新井に伝えられている。

 

 日本が大量の朱を産出することは中国でも知られていたが、日本が仙薬の原料である朱を産出することは日本を仙人の国とみなすきっかけになったのかもしれない。もし徐福が日本に仙薬を求めて来航したなら、朱の産地である丹後や若狭を訪ねたのではないか?という推理がなりたつのではないだろうか。

 

  『丹後の地名』というサイトがある。近畿北部を中心に膨大な地名を網羅し、それぞれの地誌を詳細に調べておられる。私も常々参照させて頂いている。『丹後の地名』によれば舞鶴の福来という地名は徐福が青葉山を目指して向かう途中、当地を通過したのが由来という。真偽のほどは定かではないが興味深い。

 

 

 『若狭国風土記逸文(『和漢三才図絵』所収)によると、若狭には若い容貌のまま長生きした夫婦がのちに神となり、それにちなんで若狭の国と称したとある。「若狭」という地名が不老長寿の<若さ>に由来するのであるという。

 

  人魚の肉を食べて不老不死となり800歳の寿命を保った八百比丘尼は若狭の空印寺で入定したとされる。八百比丘尼の食べた人魚の肉とは常世の神の乗り物であるとされたジュゴンの肉であったといわれる。

 八百比丘尼に関する伝承が丹後から若狭にかけて分布しているが、若狭の国が不老長寿と知られていたこととつながるのだろう。そうした不老長寿のイメージの背景にあるのは若狭で多く朱が産したからではないだろうか。

 

 

 仙薬としての水銀については中国の神仙思想に起源を求める事が多いが、サンスクリットで水銀を意味する“rasa”(ラサ)は不老不死の秘薬をも意味する。水銀を駆使した不老不死の探求はインドでも行われていたのである。

 

 13世紀にインドを訪れたマルコポーロは「東方見聞録」のなかでインドのヨーガ行者について述べている

 

「かれらは大変に長生きで、いずれも150歳から200歳までも生きている。少食だが、栄養分の高い米とミルクを主に食べている。かれらは奇妙な飲物をとる。硫黄と水銀をまぜあわせ、毎月2回飲む。これが長寿のもとで、子どもの頃から飲み続けているのだ、ということである」    

 

 

 不老不死は人間の尽きせぬ願望であり、中国、インド、日本の広範な歴史のなかで追求され続けた。

 丹後、若狭の歴史もそのなかに溶け合っているようである。