開山忌 アンドロイド観音
少しづつ春の訪れが近いのを感じる。
とうとう雪のほとんど降らないままに冬を越したが、これからもこんな冬が続くのだろうか。
先日、20年以上お付き合いのある島根の友人のお寺から法話の依頼があった。
友人のお寺は曹洞宗である。開山忌(かいさんき)の法要に参加し、その後に法話をという依頼。
島根のお寺は山中にある堂々たる伽藍の大刹である。
開山忌というのはお寺を開山した初代住職の命日に行う法要であり禅宗の寺院では大切にされていることが多い。
開山忌の法要に参加するのも初めてであり、その後に法話というのも初めての体験である。
古式床しいというのか午前10時の法要の始まる2時間前には大勢の檀家さんがお寺に集まり、まず昼食の準備。10時からの法要の後は丁寧に作られた精進料理で会食。その後施餓鬼の供養があり、法話を始めたのは午後1時半。本格的だ…
昔の法要というのはこれくらい時間のかかるものだったのだろうが、自分のお寺では開始30分くらい前に準備を始め法要も30分ということすらある。
いざ法話を始めると勝手が違うせいか法話がうまく伝わっていない感触があり、それでも四苦八苦してなんとか持ち時間である1時間をこなし、最後に法話に招いて頂いたお礼を述べ、長年の友人である住職について語ろうとして、ふといろんなことが頭に浮かんだ。
大きな僧堂に自由に参禅者を迎え、時に何ヶ月にもわたって親身の指導をされるのは並大抵のことではない。
その大変さは多分檀家さんに伝わっていないのではないか…と思うと、なんだか勿体ないという気持ちと、この友人の立派さが心に染みいってくるように感じ、深くにも涙がこぼれてきた。
最後の最後で突然私が泣き出しというのがいかにも唐突で自分でも後から笑ってしまった。
法話として言葉を以ていろいろなことを、いろいろな方に伝えたいと思うのだが、いつもなかなかうまくゆかない。
ある説法の上手なご住職に伺ったら、笑ってもらい、泣いてもらい、最後に納得したもらう…と法話の要諦を語って頂いたことがあるが、語っている自分が泣いてしまっては元も子もない(苦笑)
京都の高台寺というお寺にアンドロイド観音がお目見えし、法話をするのだという。
アンドロイドの法話とは一体どんなものなのだろうか…
お釈迦様の時代のことを伝える古い経典にはお釈迦様の説法があると聞いた漁師が魚のかかった網を放り出してお釈迦様の説法を聞きに行くというエピソードがある。
漁師のような庶民が喜んで聞きに行く説法とは一体どんなものだったのだろうか。
一般にお経と呼ばれているもののの多くはお釈迦様や仏様の説法であることが多い。
格調高く、難解で、深遠であるが、お釈迦様在世の折の説法とは少し違うのかもしれない。
つまりもっと平易に語られた可能性もある。
仏典には笑いという要素は殆どないが、実はものすごく面白かったとか…
高弟のシャーリプトラと掛け合いで笑いをとるとか、側近のアーナンダをいじったりとか…
否、悟りを開かれたお釈迦様はその内容があまりに高度なので余人には理解しがたいとして人々にその悟りを解くことを一旦は諦められた。
とすればやはりその説法はとても高度であったとも考えられる。
お釈迦様ははたしてどんな説法をされたのだろうか?
タイムマシンというものができたら是非、お釈迦様の説法を聞いてみたいと思うのである。